今回は、イルクーツク発57列車でノヴォシビルスクまで1泊2日、2等車で32時間の旅である。乗る前に思ったのは、前回の列車が60時間だったので、「今度は短いな」ということ。慣れとは恐ろしいものである。そして、列車番号が「207」から「57」に減っているので、車両の内容も少しは格上なのではないかという期待もあった。
イルクーツクで発車を待つ57列車。イルクーツクともこれでさよならである
ところで、30年前にイルクーツクからモスクワに向かったときは、ロシア号がなんと約12時間遅れるという事態に遭遇した。あとで聞いたところでは、どこかで脱線事故があったのだそうだ。そんな時間があったらバイカル湖観光でも連れていって欲しかったのだが、駅の近くのホテルに移送されて部屋でぼんやりと出発を待っていたという情けない記憶がよみがえってきた。
そんな事態がまた起きたら、ノヴォシビルスクでの滞在時間がほとんどなくなってしまうのだが、幸いなことに列車は無事定刻の15時55分(イルクーツク時間)に発車した。
真っ先に「スタカン」と「ロージカ」を借りる
もっとも、定刻に発車したのも当然で、57列車はイルクーツク始発だったのだ。やはり始発列車はいい。車内の空気はきれいだし、寝台の布団も何となく清潔な気がする。
客車自体もまた、イルクーツクまでの207列車とくらべてみると、壁がきれいで枕元のランプや小さな網棚のデザインもやや新しい。通路には埋め込み式の補助席もあって、製造はこちらの方が新しいことがうかがえる。
車掌さんは、切符のチェックや乗客の案内など発車前から忙しい
列車が走り出してしばらくしたところで、車掌さんの仕事が一段落したのを見計らって車掌室にカップとスプーンを借りに行くことにした。
カップとスプーンは、前回の列車で学んだ通り、「スタカン」と「ロージカ」。このときには、他人にお願いをするときに、英語のプリーズに当たる「パジャールスタ」を付けることも覚えていた。車掌さんは、メモ帳に私たちの寝台番号を記入して、すぐに貸し出してくれた。
「素晴らしい、完璧だ。もうシベリア鉄道に怖いものはない」
自画自賛したのだが、今思えば、カップとスプーンは2つずつ借りたのだから、複数形にしなくてはいけなかった。ちなみに、その後調べたところによると、複数形は、「スタカーナ」と「ロージキ」になるらしい。
まだ窓が汚れていないので、窓越しでも写真をきれいに撮れるのが気持ちいい
自画自賛ついでにいうと、「スパシーバ」と「ハラショー」もすぐに口から出てくるようになっていた。「スパシーバ」は「ありがとう」、「ハラショー」は「よい」「おいしい」「素晴らしい」「分かった」という意味。何かいいことがあったら「ハラショー」と言えば、たいていのロシア人はあの恐い顔の相好を崩して喜んでくれる……ことが多い。この2つもまた、ロシアを旅するときの必須単語である。
車窓を楽しみたいなら寝台は下段に限る
この列車でも、寝台は下段である。やはり、シベリア鉄道は下段がいい。上段からだと、横になった状態で、窓枠の上端が目の高さより少し上くらいなので視界が狭い。車窓がよく見えないのだ。もちろん、日中は下段の寝台の端におじゃまして、食事をとったりくつろいだりしてもよいのだが、どうしても気兼ねしてしまうことになる。
これが寝台の上段。天井までの高さは、下段よりもはるかに高いので圧迫感はない
そう思うのは、1985年のイルクーツク~モスクワで、3泊4日を寝台の上段で過ごしたからである。そのときのほかの3つの寝台の客というのは、オーストラリア人の陽気な女性3人組であった。私と同じくらいの年齢だったと思う。
元気で楽しそうなのはいいが、ときに下着のままでくつろぐのはいかがなものか。あまりに無防備なのは、ちっともうれしくない。たぶん、女子校の更衣室はあんな雰囲気なのだろう。まあ、彼女らにしてみれば、私は男のうちに入っていなかったに違いない。
イルクーツクからアンガラ川沿いに走って約1時間。アンガルスク駅では多くの乗客があった
当時のソ連の旅では、予約の時点で上段も下段も指定できなかったのだが、今回はだいぶ事情が変わっていた。車窓から見える風景を心ゆくまで撮ろうと思っていたので、事前に下段を指定して予約したのである。
かつてのソ連の不自由旅行
昔のソ連旅行というと、自由度が極めて低かった。個人旅行をしようと思ったら、まず国内の旅行社に行って、事前に入国から出国まで交通機関と宿泊地をすべて決定して、支払いを済ませなければならない。
すると、ソ連唯一の旅行社である国営のインツーリストという会社に連絡が行き、切符やホテルを予約してくれる。それで初めて入国ビザが発給された。ちなみに、宿泊はインツーリストが指定してくる外国人用の高価なホテルに強制的に泊まらされた。
1981、1985年の旅行の思い出。赤い表紙が切符。下に見えるのはシベリア鉄道土産で買った5枚つづりの絵はがき
支払いを済ませた証明書として、旅行者には「バウチャー」と呼ばれる旅行確認書(引換券)が手渡される。そこには旅程やサービス内容が記されており、現地の係員やホテルのフロントに渡すことで切符と交換したりホテルに泊まれたりするという仕組みだ。旅行中に急病にでもなれば別だが、基本的に旅程の変更はできない。
駅からホテルまでは、インツーリストの係員が付き添って送り迎えをしてくれたのは便利だったが、考えようによっては護送されていくのと同じである。もっとも、単なる観光客にいちいち尾行や監視役が付いたわけではなく、イルクーツクでもモスクワでも、自由に町じゅうを散歩して写真を撮ることはできた。
シベリア鉄道もホテルもネットで予約できる
では、今回はどうやって個人旅行を手配したのかというと、ネットを利用してすべて家のパソコンの前で済ますことができた。ロシア旅行に興味のある方のために、その手順を簡単に説明しておこう。
まず、シベリア鉄道の乗車券の予約である。ロシア鉄道の予約サイトでは乗車の45日前から購入でき、英語ページもある。ただし、最後の支払いの画面はロシア語のみになってしまうので断念。
アンガルスクを出ると、車窓は一気にローカル色が濃くなっていく
その点、各国の旅行社が運営している予約サイトなら、多少の手数料はかかるが英語や日本語で予約できる。私が利用したのは、「Russiantrains.com」という予約サイト。日本語でも予約できるが、訳語がおかしかったり動作が安定していなかったりするので英語の方が無難である。これまでネットで切符を買ったことがある人で、多少の英語ができれば問題はないだろう。ただし、変更やキャンセルなど、何かあったときの相談は英語だけのようだ。
列車を決めてカードで支払いをすると、半日後くらいにメールに添付されてEチケットがPDFで送られてくる。このPDFを印刷して列車の車掌に見せればいい。飛行機のEチケットと同じ要領である。
肝心の料金なのだが、季節や列車によって大きな開きがあり、最近はルーブルの為替レートが急落しているのでなんともいえないが、もし、途中下車しないでウラジオストクからモスクワまで乗り通せば、夏季のロシア号の1等車で8万円、2等車なら4万円、3等車なら2万円ほど。冬季だともう少し安くなる。
今回、ウラジオストクからモスクワまで4回に分けて乗車して、うち1等車に2回、2等車に2回乗ったところ、一人当たり12万円ほどかかった。途中下車をすると、かなり割高になるようだ。
ちなみに、1981年に乗ったときは、ナホトカからモスクワまで約12万円。当時のアエロフロートの格安運賃と同じくらいだった。
自分でスケジュールを組むときに注意しなければならないのは、前にも書いたように、ロシアの長距離列車はすべてモスクワ時間で表示されていることだ。時差を考え、真夜中の到着や出発を避けてスケジュールを組むのはずいぶん苦労した。
ホテルはネットの予約サイトを利用した。日本語が使える予約サイトがいくつもあるので、日本国内と同じ要領で予約できる。なかでも「Booking.com」はロシアのホテルに強いようで、私はこれを使った。
ビザの取得も以前よりずっと楽になった
鉄道の切符、行き帰りの飛行機の予約を済ませ、ホテルの予約を完了したら、あとはビザの取得である。
現在も、日本人はロシア入国にビザが必要なのだが、以前にくらべるとずいぶん簡単に取れるようになった。そして、事実上、自由旅行も可能になった。”事実上”というのは、今も形式的にはソ連時代と同じ「バウチャー」のシステムをとっているのだが、ほとんど形骸化しているためだ。
ビザ取得に必要な「旅行確認書・バウチャー」はネット経由で入手できる。ロシア政府に登録されている旅行社のサイトで何千円かを支払うだけで、短いところでは十数分でPDFが送られてくる。その旅行社を通じて予約したかどうかは問われない。滞在都市とホテルを記入する欄はあるが、その通りに旅行しなくても構わない。あくまでも建前なのである。
シベリア鉄道のEチケット(下右)と旅行確認書・バウチャー(下左)。ガイドブックの「地球の歩き方 シベリア」を買ったのはいいが、なんと旅行に持っていくのを忘れてしまった
こうしたやり方は違法ということではなく、ロシア大使館領事部でもそれを承知の上でビザ発給をしているようだ。詳しくは、ネットで「ロシア 空バウチャー」で検索してみてほしい。もちろん、急に方針が変わる可能性もあるので、あくまでも自己責任でお願いしたい。
ビザ申請に必要なものや発給までの期間、費用などは、ロシア大使館の査証申請サイトをご覧いただきたい。ビザはロシア大使館などに出向いて取得するほか、業者に代行取得してもらうこともできる。
イルクーツクから西に向かうにつれて、だんだんと天気が悪くなってきた
人妻風金髪美人イチオシの「イカ料理」の正体
細かい説明が続いてしまったので、このあたりで57列車の旅に戻ろう。イルクーツクを出て1時間ほどしたところで、いつものように食堂車へお出かけである。
207列車では、乗っていた客車から食堂車まで毎回約10両分を歩いて行き来する必要があったが、今度の57列車では食堂車がすぐ近くにあったのは喜ばしかった。おかげで、1泊2日の行程にもかかわらず、何度も通うことになった。もっとも、何度も通ったのは、単に近かったからだけではなく、もう1つの理由があるのだが、それはまた次回に明らかにしたい。
この列車の食堂車は、半室がテーブル席、半室がカウンターという構造で、クラシックな雰囲気がなかなかよかった
この列車の食堂車はビュッフェでなはくて、ちゃんとしたイスに座って食べられる食堂車であった。そして、イスに座ると、とりあえず「ピーヴァ!」。
ビールを持ってきてくれたのは、色っぽい人妻といった形容がぴったりな金髪のロシア美人であった。ビールをテーブルに置くと、彼女はメニューを開いて何かを指さす。どうやら、これを注文したらどうかと勧めているらしい。
彼女は私たちがロシア語を読めると信じて疑わないようだ。しかたなく、試しにメニューのキリル文字を発音してみると、「カリマーリ」と読めるではないか。イタリア料理からの推測によると、これは「イカ」である。がぜん食欲が湧いてきた。
「イカの料理なのか? イカフライ? ゆでたイカ?」
ちょっと気になったのは、値段が170ルーブル(約300円)と微妙な点である。食堂車でのしっかりした料理にしては安すぎる。だが、「フライ?」と聞いても、「ボイル?」と聞いても通じない。彼女はロシア語で説明してくれるのだが、やはり分からない。
そんな押し問答が2、3分続いたところで、彼女は実物を持ってきてくれた。
これが問題のイカくん。これで300円はちょっと納得いかない……(撮影:二村嘉美)
結局、なんだかんだとお大尽のように食べて飲んでしまい、会計は2人で2160ルーブル! 4000円近くになってしまった(撮影:二村嘉美)
それは……袋に入ったイカの燻製だった。
ちょっとがっかりしたが、せっかく素敵な人妻が持ってきてくれたものである。「もしかすると、ロシアのイカくんは変わった味がするかもしれない」と自分に言い聞かせて注文することにした。
だが、食べてみると、日本にあるイカくんとまったく変わらない。しかも、量が少ない。今回のロシア旅行の食事における唯一最大の失敗であった。
それにしても、イカくんがなぜこのロシアにあるのか。
「スーパーでもバイカル湖でも燻製が多かったじゃない。もしかすると、イカくんもロシアが発祥かもよ!」
妻はイカくんを噛みながら、さも大発見かのように叫んだ。なるほど、一理あるかと思ったが、日本に帰ってから「イカくん 発祥」で検索してみたところ、「全国いか加工業協同組合」というサイトに、「イカ燻製は昭和25年頃函館で開発されたようです」と書かれていた。
ロシアのソウルドリンク「クヴァス」
弁解するようだが、車内ではビールばかり飲んでいたわけではない。よく口にしていたのがクヴァスである。
クヴァスというのはロシアの伝統的な飲み物で、黒パン(ライ麦パン)と麦芽を発酵させたものだ。かすかな甘みと酸味、そして独特のコクがあって癖になる。とくに夏にはよく売れるそうで、日本でいえば麦茶のような存在かもしれない。ロシアのソウルフードならぬソウルドリンクである。
駅のホームで売られていた量り売りのクヴァス。1杯20ルーブル、1リットルで100ルーブル(約180円)と書いてある
35年前のモスクワでは、市内のあちこちに自動販売機があって、喉が渇いたときに気楽に飲むことができたが、色も味も薄くてまずかった思い出しか残っていない。わずかに1回だけ、街頭でおばあさんの売っていたクヴァスだけが、コクがあっておいしいと感じたことを覚えている。「ハラショー」と言ったら、にっこり微笑んでくれたっけ。
イルクーツクのスーパーで、ずらりと並んだクヴァスのペットボトル
今回は、食堂車でもスーパーマーケットでも町なかでも、いつでもどこでもクヴァスを買って飲むことができた。たいていこういうものは、思い出が加わって「昔のほうがうまかったのに」となるのだが、ことクヴァスに限っては、現在のほうがはるかにコクがあってうまい。残念ながら、モスクワの街角で飲んだおばあさんのクヴァスは色あせてしまった。
ハバロフスクではこんなクヴァス売りの露店も出ていた
実は、日本に帰ってきてから知ったのだが、クヴァスにも1~2%のアルコール分が含まれているのだそうだ。確かに、アルコール発酵をしているのだから、そうなのだろう。ただし、ロシアではアルコール飲料には分類されていないらしい。
さて、食事も済ませて部屋に戻ってくつろいでいると、ガラッとドアが空いて、「ズドゥラストヴィーツェ」(1日じゅう使えるあいさつのことば)という若い女性の声がした。こちらが外国人と見て、かなりわかりやすい発音でいってくれたようだ。
英語とドイツ語ができる彼女とは、翌日の夜に私たちが下車するまで、さまざまなことを話した。そして、夜が更けたころにはもう一人、今度は40代くらいの男性が乗り込んできた。
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