ウランバートル、北京方面は乗り換え──ウラン・ウデ駅

 この日は、夜中から未明にかけて、チタ、キーロフの両駅で長時間停車があったものの、夜が明けてからは現地時間で10時4分着、26分停車のウラン・ウデが最初であった。

色使いが鮮やかなウラン・ウデ駅の立派な駅舎

 ウラン・ウデはブリヤート共和国の首都。人口40万人の大都会である。ウランバートル、北京方面への分岐駅でもあり、駅構内や駅前もかなりの賑わいを見せていた。

 現在はロシア人が多数となっているそうだが、駅前で見たタクシーの運転手や売店の人たちの顔は、元横綱の朝青龍を思わせる、いかにもモンゴル系のブリヤート人だった。

久しぶりの長時間停車なので、乗客はホームでのんびり。熊の像の前で、ちょっと似たフォルムのお姉さん(失礼!)が記念撮影をしていた。

 私にとって、1985年の第2回シベリア鉄道乗車は、北京発モスクワ行きの国際列車だったので、このウラン・ウデは懐かしい響きの駅である。

 当時は、中国で改革開放政策が始まって間もない時期で、北京市内でも人民服を着ている人がほとんどだった。

30年前の中国~モンゴル~ソ連の国際列車。ソ連国境近くのモンゴル国内の駅で撮影した(1985年)

 北京発モスクワ行きの列車では、おもしろいことに国境を越えるたびに食堂車だけが入れ替えられた。乗客が乗っている客車はそのままなのだが、中間にはさまっている食堂車1両だけが、国境の駅で交換されるのだ。

当時のモンゴルの食堂車(1985年)

 モンゴルの食堂車は羊料理が多く、当時の私にはいま一つ口に合わなかったが、中国の食堂車で「あそこの人たちが食べている麺と同じもの!」と注文した麺は絶品だった。

 中国人の40歳くらいの男性の車掌さんは、山口百恵のファンだと筆談で教えてくれたっけ。国境を越えて、ソ連まで通して乗務していた彼は、実に穏やかで融通の利く人であった。

 この国際列車の話は、書いていくときりがないので、このくらいにしておこう。

中国からソ連に向かっていた中国政府のお偉方なのか。ウランバートル駅停車中に子どものようにはしゃいで記念写真を撮っていた(1985年)

「ビール」と「ワイン」のロシア語も覚えた

 ウラン・ウデを出発するとまもなく、シベリア鉄道の最大のハイライト、バイカル湖が見えてくる。まもなくといっても2時間はかかるのだが、もうこのあたりまでくると、時間の感覚はかなり日本とは違ってくる。

 だが、バイカル湖が見えるのは右側の車窓なので、通路に出ないと見ることができない。それならば、昼間からビールでも飲みながら、雄大な景色を眺めようということで、またもや食堂車に向かった私たちである。

 「私たちはいい大人だからね。ちょっとくらい贅沢してもいいんじゃないの」

 これが、この旅を通じての妻の口癖だった。今考えてみると、若いころの貧乏旅行の習性がなかなか抜けない私に対する、一種の洗脳活動だったに違いない。

バイカル湖を眺めながら、ピロシキとサリャンカをおつまみに昼間からビール

 そういえば、ここまで書いていなかったが、ロシアの飲み屋で「ビール」「ビア」といっても、まず通じない。

 「飲み屋でなぜビールが通じない!」と最初のうちは憤慨したが、通じないものはしかたがない。

 ウラジオストクやハバロフスクでは、店に1人くらいは「ビール」で分かる人がいたのでなんとかなってきたが、この列車ではとうとう行き詰まった。かくして覚えたのが「ピーヴァ」という単語である。

 そして、ワインは「ヴィノー」。こちらは、フランス語やイタリア語からの類推でわかるが、「ピーヴァ」は何に由来しているのだろうか。

 いずれにしても、私たちにとってこの2つの単語は、ピロシキの中身以上に必須のロシア語となった。

バイカル湖の岸辺を丁寧になぞって線路が敷かれている

 もっとも、この2つの単語を覚えただけでは安心できない。「ピーヴァ」と注文すると、「薄いやつ(ラガー)か濃いやつ(黒ビール)」をたいてい聞かれる。もちろん、何を尋ねられているのか理解できたのは、かなりあとになってからのことである。

 そして、「ヴィノー」と注文すると、当然「赤か白か」を聞かれる。そこでレッドとかホワイトとか言っても、やはり通じないのだ。モスクワに着くまでに、なんとか「濃い」と「赤」だけは覚えることができた。