英国が直面する「合意なきEU離脱」の危うさ
大和総研の菅野泰夫ロンドンリサーチセンター長に聞く
11月25日の緊急首脳会議で、EUは英国の離脱案を正式に承認した。合意した離脱協定は約600ページに及び、専門的な記述も多い。英国のEU離脱交渉をウオッチし続けてきた大和総研の菅野泰夫氏に、離脱協定に対する評価と今後の見通しについて聞いた。
(聞き手は大西孝弘)
菅野泰夫(すげの・やすお)氏
1999年大和総研入社。年金運用コンサルティング部、企業財務戦略部、資本市場調査部(現金融調査部)を経て2013年からロンドンリサーチセンター長兼シニアエコノミスト。研究・専門分野は欧州経済・金融市場、年金運用など。
英国と欧州連合(EU)は長い交渉を経て、11月25日のEU緊急首脳会議で離脱協定と政治宣言に合意しました。離脱協定をどのように評価していますか。
菅野泰夫氏(以下、菅野):英国のEU離脱(ブレグジット)交渉はEU側の圧勝だと思います。EUは英国から多くの権利を勝ち取り、英国からの「手切れ金」も担保されました。
最大の懸案事項である英領北アイルランドの国境問題についても英国は譲歩しました。国境管理の具体策を見いだせない場合のバックストップ(安全策)では、北アイルランドだけを単一市場に残すというEUの提案について、もともと英国は絶対に反対の立場でした。
非常に分かりにくいのですが、離脱協定案ではバックストップが発動された際には、北アイルランドを含む英国全体が、EUと共同の単一関税領域(関税、原産地規則などのチェックがなく、モノが自由に移動できる領域)に収まります。ただし、北アイルランドだけはEU単一市場の規則も順守することになりました。
強硬離脱派はこの案に強く反発しました。この案では結局、北アイルランドから英国本土への通関手続きが必要になり、実質的に英国本土と北アイルランドとの間のアイリッシュ海に国境線が引かれることになります。
この点はあまり報道されていませんが、北アイルランドと英国本土を行き来する際にパスポートが必要になるのでしょうか。
菅野:はい。その可能性は否定できません。また、英国本土でも部分的にEUの規制を受け入れ続けなければなりません。そのため、離脱後も英国の主権を取り戻せない分野が生じることになり、強硬離脱派からは「(離脱協定案を受け入れて離脱したら)EUの属国だ」という批判が強まっています。
メイ首相は単一関税領域という新しい概念を作り、ハードボーダーを回避しつつもEU域外国と自由に貿易協定を結べる余地を勝ち取った点をアピールしていますが、実質的にはEUにかなり譲歩した内容です。
離脱協定案では、2020年7月まで協議しても厳格な国境管理を回避する解決策が見つからなければ、英国がEUの関税同盟に留まり続ける移行期間を延長できるとしています。この点も大きな批判を招いています。
菅野:バックストップが半永続的な措置になり得る含みを残したことなどで、強硬離脱派の反発は相当のものになっています。メイ首相は保守党内から党首としての不信任投票が提出されるかもしれません。
12月に「ノーディール宣言」もあり得る
菅野:保守党の党則では、一般議員48名が不信任の意を示した書簡を1922年委員会(議員委員会)に提出すると、党首への不信任投票が実施されます。
強硬離脱派は離脱協定を全て破棄し、党首選を実施すべきであると主張しています。前々回の党首選は約2カ月かかりましたが、前回(2016年)は2週間で実施できています。それでもやはり時間がないことがネックとなります。
多くの閣僚が辞任しています。辞任する政治家は無責任ではないでしょうか。
菅野:これは政治家としての信条を曲げないという点では、評価していいのではないでしょうか。英国では、次の選挙をにらんで、離脱派から残留派に転ずる政治家も少なからず存在します。ただ、だからといって、合意なき離脱が良いわけではありませんが。
メイ英首相はEUと離脱協定案の合意にこぎつけたが、与野党から強烈な批判にさらされている(写真:AP/アフロ)
これだけメイ首相がEUに譲歩せざるを得なかった背景をどのように見ていますか。
菅野:やはり時間がないからでしょう。本来はギリギリまで交渉することもできたのですが、18年6月の離脱法案で19年1月末までに英議会で離脱協定を巡る合意案が承認される必要が生じました。実質的に離脱の2カ月前が交渉期限になってしまいました。
欧州は12月中旬くらいからクリスマス休みモードになりますので、2018年12月13日、14日のEUサミットが最後の話し合いの期限になります。現段階の予想では12月7日~11日の間に英議会での採決を終え、EUサミットで合意内容を最終確認すると目されています。ただ、英議会で承認されなければ、EUサミットでノーディール(合意なし離脱)宣言をする可能性もありえます。
英国が合意条件なしにEUから放り出され、無秩序に離脱する可能性が高まっているということですね。
菅野:はい。今の離脱協定案では議会は通らないでしょう。今からEUと交渉して新しい案を作るのは時間的に不可能です。ということは、合意なき離脱になる確率が非常に高まっています。
英国に拠点を置く企業は合意なき離脱による混乱が襲ってくることに備える必要があります。EU加盟国からの財に対し通関にかかる時間が長くなり、ドーバーで通関待ちをする長距離トラックの長蛇の列ができる可能性があります。特に製造業に関わる企業はサプライチェーンの見直しを急ぎ、真剣に緊急対策を検討するべきです。
菅野さんは単一市場から外れると同時に、EUの影響を最小限に抑えた「ハードブレグジット」であれば、ビジネスチャンスがあると指摘しています。
菅野:今はEUの原産地規則に縛られ、EU内で多くの部品を調達しなければいけない点が生産コストを引き上げています。
自動車部品などの原産地規則などが外れて、EU域外からコストの安い部品を輸入できれば、EU離脱のマイナス影響を補い、コスト競争力を手に入れられる可能性はあります。
メイ首相の早期辞任は不可避に
逆にEUからすると、今回の協定案は受け入れやすいものですね。
菅野:はい。離脱協定に対するEU側の承認には以下のような手続きが必要になります。まずEU理事会が特定多数決方式(QMV)により、EU加盟27カ国の55%以上、かつその人口がEU人口の65%以上であることを満たす二重多数決にて協定案を巡る合意内容の承認を行います。その後、交渉がまとまると欧州議会が多数決によって離脱協定案を承認します。今回の合意案はEU側に有利ですので、おそらく承認すると思います。
EUは英国から少なくとも390億ポンド(約5兆6000億円)とされる「手切れ金」を受領する予定です。その上に、移行期間が1年延びるごとに10億ポンドを受け取ることになるといわれています。
また、在英EU市民の権利保護も確約されています。これは現在、英国に居住するEU市民とその家族について、英国のEU離脱後も現在と変わらない(EU市民としての)権利を英国法の下で保障するものです。離脱後に英国は欧州司法裁判所(ECJ)の管理下から離れるものの、その後8年間は、EU市民が当該権利の申し立てをする場合はECJに訴えることができます。
最大の懸念事項である北アイルランド問題については、2020年7月までにハードボーダーを設置しないための代替策が決まらなければ、EU離脱後の移行期間(2020年12月末まで)を延長するオプションがあります。しかし、どのみち代替策が見つからず移行期間が終了すれば前述のバックストップが発動するため、永遠にEUの単一市場に残る可能性があり、EUにとっては痛手が少ないオプションと言えます。
緊急のEU首脳会議では離脱協定案だけでなく、政治宣言でも合意しました。
菅野:26ページからなる政治宣言は、英EUの将来の関係枠組みの方向性を示しています。離脱後の英国とEUがあらゆる分野において深く、柔軟なパートナー関係を築く野心的な内容です。この政治宣言の基本理念は英国の主権とEU単一市場の整合性にあり、離脱後の英EUの関係性について、自由貿易から核安全協議と防衛まで広範な分野にわたり言及しています。
ただこの政治宣言には法的拘束力がないため、本当にEU側が英国との未来の協定を締結するかは未知数です。また、離脱協定交渉でさんざん譲歩してきたメイ首相の手腕にも英国内の不満が高まっています。今後、メイ首相が将来の関係性をEUと交渉しても、良い条件を勝ち取れるとは保守党内ですら信じている議員は多くありません。
よって、たとえブレグジット合意を英議会が承認しても大幅な譲歩を許し、不本意な離脱を招いたとして、メイ首相は求心力を失い、19年3月以降、辞任に追い込まれる可能性が高いといわれています。
ブレグジットを見届けるとして退陣の意向を強く否定したメイ首相ですが、今後の不信任投票の行方や、英議会の採決次第では、その決意が揺らぐ可能性も否めません。今後、英国では合意なき離脱だけでなく、その際に議会再編が起こり、政治が再び大きく動く可能性に警戒が必要です。
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