低所得者の死亡率は高所得者の3倍高い──。こんな厳しい現実がある。
所得や地域、雇用形態、家族構成……。こうした要因によって、我々の健康には「格差」が生じている。こうした問題点をデータと取材によって明らかにした新書「健康格差 あなたの寿命は社会が決める」が発売された。
日経ビジネスオンラインは、著者であるNHKスペシャル取材班、版元である講談社とともに、この新書の全文公開の第一弾として、その実態に迫る第1章を無料で公開する。多くの経営者やビジネスパーソンにとって、健康格差の問題は座視できないと考えるからだ。
(島津 翔=日経ビジネス)
『健康格差 あなたの寿命は社会が決める』全文公開
「低所得者の死亡率は高所得者の3倍高い」といった驚きの格差について伝えるとともに、健康寿命を伸ばすための自治体の取り組みなどについて紹介している本書。
この「健康格差」の問題をより多くの読者に知ってほしいという著者の強い思いを受け、その問題意識に共感くださったWebメディア6社(日経ビジネスオンライン、ダイヤモンドオンライン、プレジデントオンライン、東洋経済オンライン、ビジネスインサイダージャパン、ハフポスト 順不同)に、出版社メディアの垣根を越えてご協力いただき、現代ビジネスを含めた計7媒体合同で本書の全文公開を行うことを決めました。
(講談社現代新書編集部)
第1章 すべての世代に迫る「健康格差」
本章(第1章)では、子どもから現役世代、そして高齢者にいたるまで、すべての世代に忍び寄る「健康格差」の実態に焦点を当てる。WHOによると「健康格差」を生み出す要因は、所得、地域、雇用形態、家族構成の4つが背景にあるとしているが、まずは所得、雇用形態、家族構成の3つについてくわしく見ていく。
1 現役世代に迫る危機
若者と糖尿病
まずはじめは、現役世代に迫る「健康格差」の現実だ。「生活習慣病」として知られる糖尿病。血糖値が高くなる病気として、国内の患者数が2012年に950万人を突破し、日本人の13人に1人がかかる「国民病」のひとつとして社会問題になっている。糖尿病は血糖値が高い「高血糖」の状態が続くことで、進行すると人工透析が必要となる「糖尿病腎症」や失明の危機がある「糖尿病網膜症」、「脳卒中」などを引き起こす合併症をともなう。これまで患者の大半は中高年層とされ、若い世代にとっては無縁の病気と思われてきた。
ところが最近、30代から40代の現役世代に、糖尿病患者が増え始めている。しかも、単なる糖尿病ではなく、腎臓や目の網膜に合併症を引き起こした重度の患者だ。腎臓に合併症が出る「糖尿病腎症」は、悪化すると週におよそ3回、半日がかりで透析を受ける必要があるほか、網膜に合併症が出る「糖尿病網膜症」の場合は、失明することもある。
重度の糖尿病患者が次々に
現役世代の異変にいち早く気づいたのは、石川県金沢市の内科医・莇也寸志さんだ。金沢で何が起きているのか。取材班は、市内にある金沢城北病院を訪れた。経済的な理由により、医療費の支払いが困難な患者のために、無料低額診療も行っている総合病院だ。取材班を診察室に通すと、莇さんは「まずはこの写真を見てもらいましょう」と一枚の写真を見せてくれた。口の中だけを映した写真には、歯がほとんどなく、ほんの少し残っている歯も、黒く蝕まれている。

「こちらの方、まだ20代なんですよ。70代の方じゃないんですよ、うん」
まるで、70代、80代の高齢者の口の中を写したかのようなレントゲン写真に目を疑う取材班に、莇さんはカルテを見ながらこう続ける。
「この方は、歯周病が悪化してこんな状態になったんです。2型糖尿病の合併症のひとつですね。私は30年ほど糖尿病の臨床を続けてきましたけど、こんなケースはこれまで一度も経験したことがなく、とても驚きました」
莇さんはこの患者に出会った後も、立て続けに3例ほど若い世代の重症の糖尿病患者を診察する。時は、2008年。100年に1度の経済危機と言われ、世界経済に大きな打撃を与えた「リーマン・ショック」後のことだった。
糖尿病には、主に「1型糖尿病」と「2型糖尿病」の2つのタイプがある。「1型糖尿病」は、血糖値を下げるインスリンを製造する、膵臓のβ細胞が壊れてしまうことで発症する。これに対し「2型糖尿病」は、もともと糖尿病になりやすい人が、肥満・運動不足・ストレスなどをきっかけに発病する。「1型」は主に自己免疫の異常などによって小児期に発生することが多いのに対して、「2型」は長年の生活習慣による中高年期に発症することが多いとされている。一般に「40代以下の2型糖尿病患者は全体の3%程度」と言われており、専門医であっても若い患者を診ることは、まれなことだ。
莇さんは言う。
「生活習慣病とされる2型糖尿病は、通常なら40代以上がかかる病気でしょう。ところが、立て続けに合併症を起こした若い患者さんを診たわけです。こんなことは、滅多にないわけですから、これは何かおかしい、何か起こっているんじゃないかと思ったわけです」
ただでさえ少ないとされる、若者の2型糖尿病患者。その中に、本来なら発症から、長い期間が経ったのちに発症する合併症を併発している人がいるという事実。莇さんが感じた「何か起きている」という原因は、患者の肉体面にあるのか、精神的なストレスにあるのか、はたまた患者を取り巻く社会的な環境の変化が引き起こしたものなのか。「ただごとではない」と感じた莇さんは、2型糖尿病患者の症状をくわしく調べるだけでなく、一歩踏み込んだ診察方法に取り組んだ。それは、患者の食事方法や運動習慣を尋ねる通常の診察に加え、職歴や年収などについても尋ねる診察だった。
日本の病院では一般に、年収や職歴など患者の社会的背景を聞くことは、プライバシーにかかわるとして避けられる傾向がある。しかし、症状の悪化には、社会構造の変化が影響しているかもしれないと仮説を立てた莇さんは、あえて患者にこうした質問をぶつけた。その結果、あぶり出されたのが、糖尿病と「貧困」との関係だった。患者に共通して見られたのが、非正規雇用などによるゆとりのない生活だった。
貧困と糖尿病
取材班は、莇さんの病院を受診した患者のひとりに話を聞くことができた。非正規雇用で15年間働いていたみゆきさん(仮名・40代)だ。みゆきさんと取材班が初めて会ったのは、病院の会議室だった。若干顔色が悪いことを除けば、第一印象はどこにでもいる穏やかな雰囲気の方だった。ところが、みゆきさんのある所作に、取材班の印象は大きく変わった。番組内容を記した「取材依頼書」を差し出したところ、みゆきさんが紙をまるで顔にくっつけるようにして読み始めたのである。

「ごめんなさい。視力が落ちてしまっているんです。糖尿病の合併症(糖尿病網膜症)なのか、文字がとても見づらくなってしまって。日の光もまぶしく感じてしまって、外に出るときはサングラスが手放せないんです」
30代の時、糖尿病を発症したみゆきさん。合併症から腎不全を併発しており、足のむくみがひどく、取材中もしきりに足をさすっていた。
「こんな状態になったのは、自業自得かもしれません。お金がないからといって、糖尿病だと知っていたにもかかわらず、病院に行かずほったらかしになっていました」
最近は、筋力が低下し、階段を登るのも難しくなってしまった。莇さんによれば、みゆきさんは腎不全が悪化しているため、数ヵ月後には人工透析が必要な状態だという。
「治療を受けることができたのは莇先生のおかげです。1年前、体がだるくてどうしようもないけれどお金がなくて病院に行けなかったとき、先生に尽力していただき、無料低額診療を私に紹介してくれ、治療費を無料にしてくれました。先生がいなかったら、今ごろどこかでのたれ死んでいたと思います」。みゆきさんは、一気にそう語った後、取材班の目も憚らず、泣いてしまった。
取材班は日を改めて、金沢市郊外にあるみゆきさんの自宅を訪ねた。みゆきさんは、2階建ての小さなアパートの1階にひとり暮らししている。玄関を開けてすぐ気づいたのは、敷かれたままの布団と傍らにある大量の薬の袋だ。
「もう、横になるか、座ってボーッとしているっていうか。これ以上よくなることはない、悪くはなっても……」
と静かに語るみゆきさん。取材班は布団の横で、なぜこんなことになってしまったのか、話を聞いた。
みゆきさんは、非正規雇用の労働者として、主に工場での検品を中心に職場を転々としながら15年間働いてきた。夜勤と日勤を繰り返すような不規則な働き方だったため、食事は買ってきた弁当で済ますことが多かったという。1日12時間労働になることも多く、疲れ切って家につく毎日。次第に食べることだけが、ささやかな楽しみになっていった。帰宅すると、500mlのビールとともに、弁当は少なくとも2パックをかきこむ。
「家に帰っても誰もいない。もし誰かがいれば、料理を作る気にもなるんですけど、自分だけのためだったら、ただお腹を満たせればいいだけっていうか。食べたらなんかすっきりするし。まあ、ストレス解消みたいに考えていましたね」
雇用が不安定だったことから、いつ仕事をクビになるかわからないという精神的なストレス。友人たちも、次々に結婚、出産し、ライフスタイルが異なってしまったことから知らず知らずのうちに疎遠になってしまう。そうしたストレスの解消が、すべて食べることに向かってしまった。
みゆきさんの乱れた食生活。それを指摘される機会にも恵まれなかった。短期契約の仕事が中心だったため、法律で定められている定期健康診断の対象にならなかったためだ。
このような生活を20代から続けること10年。36歳の時、ふと首が痛いと感じて訪れた病院で、みゆきさんは、いきなり「糖尿病」と診断される。医師からは定期的な受診を勧められたが、糖尿病の初期段階はほとんど自覚症状がないため、治療の必要性をそれほど強く感じなかったという。
「思いもよらない診断だったのですが、別に糖尿病と言われたって、痛くもかゆくもなかったんです。それより、病院に行くと行った分だけお金がかかるし、仕事も休まないといけない。するとその分、もらえるお給料は減ってしまう。だから、どうしても目の前の生活や食費にお給料を回してしまったんです」
こうして、糖尿病への対策を先送りにしてしまったみゆきさん。そのツケは、突然やってくる。診断から4年後、みゆきさんは仕事の最中に自分の体の異変に気付く。
当時、メガネの検品作業の仕事をしていたみゆきさんは、立て続けに上司に咎められる。レンズについた細かい傷の見落としが頻発したためだ。手先が器用で、細かい作業が得意だったみゆきさんを周囲は心配した。慌てて視力を検査すると、問題なかった視力が矯正しても右0.3、左0.7にまで急激に落ちていることがわかった。職場は自分に期待をしてくれたが、視力が悪い中で正確な検品をする自信がないと落ち込んでしまったみゆきさんは「迷惑をかけてしまう」と工場を辞めた。その出来事の後、みゆきさんの体調はまるで坂道を転がるかのように、次々とおかしくなっていった。足がむくみ出す。少しの段差でつまずく。全身がだるい。尿が出なくなる……。糖尿病の悪化で、今となっては食事や通院など必要な時以外は、自宅の布団で横たわって過ごすことしかできない生活になってしまった。
「今はもう、走ることができないし、まともに歩くことすらできないし。戻れることなら、健康なときに戻りたいなって思うことはあります」
そうかぼそく語って、みゆきさんは再び涙ぐんだ。
非正規雇用が貧困を生む
こうした、みゆきさんのような患者を立て続けに診察したことに強い危機感を抱いた莇さんは、全日本民主医療機関連合会(民医連)医療部に呼びかけ、全国の医療機関96施設(53病院、43診療所)の協力を得て、40歳以下の2型糖尿病患者の782人の実態調査を行った。
図1‐1は、調査に協力してくれた男性患者グループの雇用形態と全国の25~34歳男子の雇用形態を比較したものだ。グラフをみればわかるとおり、全国の25~34歳男子の無職は6.7%に対して、男性患者グループの無職は2倍以上の16.3%に達している。一方、男性患者グループの正規雇用者は55.5%と、全国25~34歳男子よりも21.5ポイントも低い。

図1‐2は、今回の調査対象の患者世帯の年収分布である。驚くべきことに年収200万円未満が57.4%を占める。一方、世帯年収600万円以上の割合に限っていえば、10.6%にすぎない。これは平成22年国民健康・栄養調査の世帯年収600万円以上の半分である。直接の因果関係は定かではないものの、健康状態の悪化と雇用形態・所得には何らかの相関があると考えられる。

世帯所得と健康に対する意識の関係
最大の要因として疑われるのが、世帯所得による食生活や生活習慣の違いだ。厚生労働省の調査では、世帯の所得が低いほど米やパンなどの炭水化物の摂取量が増え、野菜や肉類の摂取量が減少することがわかっている。米飯やパン、インスタントラーメンなど穀物を主体とする食品は一般に安い商品が多く、それでいて満腹感を得やすい。これに対して、野菜・肉・魚介類などの生鮮食品は、穀類や加工食品に比べて価格が高いうえ、長期保存が難しい。
くわえて、生鮮食品の多くは調理が必要になる。非正規雇用者の多くは、長時間労働を強いられ、食事の時間も不規則になりがちで、料理にかける時間の余裕もない。みゆきさんのように不規則な勤務形態だと、外食やコンビニ弁当などに頼りがちで、炭水化物の過剰摂取をおこしがちだ。
一方、健康に対する理解度(リテラシー)や関心の違いを指摘する声もある。図1‐3は、調査対象となった患者さんの最終学歴の分布だ。患者に占める中卒者は全体の15.2%。日本人の高校進学率は96.7%だから、明らかに中卒の割合が高いことが分かる。

所得が少なくとも、工夫次第で生鮮食品の摂取量を増やすことは可能だが、当事者に健康の維持管理には生鮮食品を適度に含んだバランスのよい食事が必要という知識がそもそもなければ、どうしても家計に優しい穀類や加工食品中心の食生活に偏りがちだ。
莇さんたちの調査によると、2型糖尿病の患者の7割がBMI(体格指数=Body mass index。身長の二乗に対する体重の比で体格を表す指数。25以上を肥満と判定する)30以上の高度な肥満状態にあり、4人に1人が2型糖尿病の合併症である網膜症を患い、6人に1人が同様に2型糖尿病の合併症である腎症を患っていた。
莇さんの初診時にすでに重症合併症を伴っていた20~30代の2型糖尿病患者の症例に共通する点は以下の3つだった。
①小児期~思春期からの肥満を背景とする糖尿病である。
②受診時にすでに重症の合併症をともなっている。
③学校卒業後、長期間非正規雇用に従事し、医療機関への受診がほとんどない。
莇さんは、単なる不摂生ではなく、雇用の不安定さなどから健康診断を受けづらくなっていることや、健康診断を受けても経済的な事情から通院できないことから、特定の病気を早期に発見して治療する検診そのものを受けたくないなど、複数の問題がかかわっていると考えている。
「通院することによって仕事を休むと、解雇されてしまうのではないかという不安があるでしょう。だから健康診断や検診を避けるようになってしまう。また多忙から、自炊する余裕もなく、自然と高血糖になるような食事にならざるをえないのかもしれません」
非正規雇用になると、健康面に配慮する余裕がなくなってしまうという声は、番組に出演してくれた複数の経験者からもあがった。
高血圧と痛風の持病を抱えているという50代男性からは、
「非正規だと昼夜も連続で働かざるをえないことがあるんです。しかもそれが何日も続くこともあります。そういう状態だと、いくら自炊して健康管理をしようとしても、家にすら帰れないから自炊そのものができない」
非正規雇用者として、工場勤務していた40代女性は、
「生活費を稼ぎたい、貯金もしたいということで、夜勤で長時間働きました。そのぶん、しっかり賃金をいただくことはできたんですけど、この2年間で体を壊してしまい腎臓病と脂質異常症(高脂血症)を患ってしまいました。何をやっているんだか、という感じです。働いている時間以外の時間が8時間しかないので、この間に睡眠と自炊をしなくてはいけない。そうなると、自炊を諦めて睡眠を優先するという生活になってしまうんです。で、起きるとさすがにお腹が空いてるので、どうしようかと考えるともう本当に家の近所の牛丼チェーン店に駆け込んで、かっこむと。そういう生活になってしまうんですよね」
と、苦しい胸の内を打ち明けてくれた。
「健康診断」格差
『下流老人』『貧困世代』の著者で、NPO法人ほっとプラスの代表理事を務める藤田孝典さんは、非正規雇用者の食生活について、こう証言する。
「非正規の方の食生活は、炭水化物を多くとる食事に偏りがちになります。米、小麦、じゃがいもの3点セット。安くて、こってり味で、すぐにお腹いっぱいになるものを好むようになります。激安の牛丼は最たるもので、こうした流れを加速したかもしれません。私のところに実際、相談にいらっしゃる人は、牛丼やラーメンが大好きな人が多い。最近、巷では糖質制限ダイエットが大流行していると言われますが、いわゆる“下流”の人たちにとっては、まったくもって縁のない話です。糖質の代わりに食べる野菜、魚、肉の値段が高くて、まず買えません。くわえて、若い人に多いのが精神疾患です。非正規労働で稼ごうとすると『長時間労働』にならざるを得ませんから、それが原因で、自律神経失調症やうつを発症する人が多い。栄養バランスと精神面が崩れたら、当然働くことすらできなくなってしまいます」
藤田さんの指摘通り、経済力の違いが生む「健康格差」は、糖尿病だけではない。低所得の人は、高所得の人に比べ、精神疾患で3.4倍、肥満や脳卒中でおよそ1.5倍発症のリスクが高いという研究もある。歯の本数が20本未満の人の割合も、低所得の人は、高所得者に比べて、男性で約3ポイント、女性で5ポイント高かった(厚生労働省:国民健康・栄養調査 2014)。
健康に暮らすために、懸命に働くことが、かえって就労不能なほどに健康を著しく損ねてしまう皮肉。これを食い止める受け皿としての健康診断も、実施状況が低いことや、行くべき人が行っていない実態も見えてくる。
企業は、正規雇用者に対しては、定期健康診断などを実施しているため、継続的に受診していれば、体の異状は早期発見できる。しかし、非正規雇用者に対しては、正規社員に比べると健康診断の体制は十分でない。厚労省の労働安全衛生調査(平成24年)によると、正社員がいる事業者のうち、正社員を対象にした定期健康診断を実施した事業所は93.5%もあるのに対して、一般社員の週所定労働時間の2分の1未満のパートタイム労働者を対象にした定期健康診断を実施した事業者は33.9%にとどまっている。派遣労働者にいたっては、実施率はわずかに27.0%にとどまっている。
未婚者に迫る「健康格差」
現役世代の「健康格差」を非正規雇用とは異なる角度から見ていくと、「未婚者」という日本が抱える静かで深刻になりつつある問題にもたどり着く。
近年、上昇の一途をたどっている日本人の未婚率。国立社会保障・人口問題研究所の推計では、50歳時点で一度も結婚していない「生涯未婚者」は2010年、男性で5人に1人、女性で10人に1人。この値は今後20年弱で、男性が3人に1人(29%)、女性は5人に1人(19.2%)に上昇する見通しだ。
そもそも結婚は、個人の意思決定に基づき自由に行われるものであり、選択の自由が保障されるべきものだ。しかしながら、近年、未婚者が既婚者に比べ、健康に大きな不安を抱えているといえる調査結果が出てきており、新たな社会問題に発展する恐れもある。見過ごせない問題として、触れておきたい。
統計学者の本川裕さんが厚生労働省の人口動態統計(2014年)を基に、未婚者と既婚者(離婚や死別を含む)の死亡率を算出したところ、45~64歳の未婚男性は同世代の既婚者の2.2倍にのぼることがわかった。未婚女性の場合、既婚者との差はほとんどなかった。
また、別の調査では、既婚か未婚かで死亡リスクが大きく異なることもわかってきた。未婚男性を既婚男性と比べると、心筋梗塞による死亡が3.5倍、呼吸器系疾患によるものが2.4倍、自殺を含む外因死で2.2倍などと、さまざまな原因での死亡リスクが高かった。この調査でも、女性については未婚・既婚での差はなかったという。
原因はどこにあるのか。専門家は、そのひとつに未婚男性の食生活の乱れをあげる。未婚男性の多くが、朝食をとらない傾向にある。この習慣は血圧の急激な上昇を招き、脳卒中のリスクを高めるとされている。
また、栄養の偏った食事も原因とみている。食事は従来、手作りの家庭料理を自宅で食べる「内食」と、レストランや飲食店で料理を食べる「外食」に加え、その中間に位置する、外部の人手によって調理された惣菜やコンビニ弁当などの調理済み食品を自宅で食べる「中食」の3つに分類されるが、未婚男性は「外食」や「中食」になる傾向が強い。
2008年の厚生労働省の国民健康・栄養調査によると、ひとり暮らし世帯が惣菜や弁当などの「中食」を購入する割合は、二人以上世帯の2倍になっている。この調査に性別ごとのデータはないが、自炊の習慣のないことが多い男性は、より「中食」に手が伸びるであろうことは容易に想像できる。
前述のように女性の死亡率が未婚・既婚であまり変わらないのは、婚姻状況によって食習慣が大きく変わることが少ないからだ。一般的に女性は男性に比べ、生活全般において高い自己管理能力を有していると言われている。自炊や弁当の手作りをいとわない男性も近年は目立ってきているが、全体としてはまだまだ男性のほうが、独身生活は乱れがちである。
さらに、未婚者は精神面でも問題を抱えやすいという。自殺予防総合対策センターの統計では、未婚者の自殺率は既婚者の1.25倍。特に中高年の場合は、45~55歳で2.1倍、55~64歳では2.4倍にまで高まる。
自殺の予防に効果的なのは、何らかのコミュニティに属することだと一般的に言われている。職場、学校、地域など種類は問わないが、何か追い詰められたときに悩みを打ち明けられ、心の支えとなってくれる相手のいることが自殺を思いとどまらせる要因となる。
ところが、ここでも男性は不利だ。女性の場合は未婚のひとり暮らしでも、趣味サークルなどのコミュニティに参加している場合が多い。だが男性は、職場を除けば人との交際機会がほとんどないという人も珍しくない。コミュニティへの参加は、現役のうちは必要ないかもしれないが、問題なのは定年退職などのリタイア後だ。退職後は、一気に他人とのコミュニケーションが乏しくなって、暇を持て余し、孤独感はいやおうなく増す。
乱れた食生活になりがちな習慣と、孤独になりがちな時間が未婚者の健康を徐々に蝕み、寿命を縮めていく。「健康格差」は、未婚者にも確実に迫っている。
2 高齢者に迫る危機
静かな病気「骨粗しょう症」
続いては、高齢者を蝕む「健康格差」を見ていく。
高齢者の「健康格差」は、そのまま寿命に直結することから看過できない問題だ。一体、どんなことが現場で起きているのか。
番組で取材したのは、埼玉県で暮らしている栗原さん(71歳)だ。栗原さんは未婚のひとり暮らしで、親族とも音信不通の状態が10年以上も続いている。これまで、工場勤めや洋品店の販売員など10回近く転職を重ねてきた栗原さんが、最も長い期間勤めることができたのは、建設現場での仕事だった。個人事業主の立場で仕事を請け負う雇用形態とのことだったが、収入は不安定で貯金をする余裕はなく、年金の保険料納付も滞るほどだった。当時の年収は180万円ほど。食事は1日2食で、おかずは缶詰だけのときもあり、野菜は週に2~3度程度しかとれなかった。

こうした経済的には決して楽ではなかった栗原さんの体を蝕んでいたのが、骨粗しょう症だった。骨粗しょう症は、骨の強度が低下し骨折しやすくなる症状だが、目立った自覚症状がなく、深く静かに進行していくため「静かな病気」と言われ、本人が気づきにくいことが多い。
そんな骨粗しょう症の影響が形に出てしまったのが60歳の時だった。自宅を引越する作業中、転倒してしまった栗原さんは、腰を強く打ち、歩けないほどの痛みに襲われる。救急車で病院に運ばれると、医師からは「圧迫骨折」の診断を言い渡された。以来、痛み止めの薬を飲み続ける生活を余儀なくされ、栗原さんは、働くことさえできなくなってしまう。
次第に収入が途絶え、無貯金状態に陥った栗原さんは現在、やむなく生活保護を受給する日々を送っている。骨折の痛みから外出することもままならず、閉じこもりがちになり、一日の大半を6畳ほどのアパートで過ごしている。
栗原さんの主治医である増山由紀子さんは、骨粗しょう症の主な原因は、栗原さんの食生活にあると考えている。
「毎月一定の家計の中で生活するとなると、食費を削ることになりがちです。そうすると、安いものでカロリーの高いものを優先しようして炭水化物中心になり、カルシウムとかビタミンとかが足りなくなります。もし、ご家族がいれば、栄養面のバランスも配慮してくれるのでしょうが、おひとりの生活だとなかなかそこまで気が回らなかったのでしょう」
「ひとり暮らし高齢者」の実態
栗原さんのような高齢者における「健康格差」を加速する要因のひとつに、閉じこもりや孤立がある。特に、ひとり暮らしの高齢者は、転倒からの骨折や精神疾患がきっかけで閉じこもりになるなどのケースが見られる。一度、閉じこもってしまうと、情報が極端に少なくなり賢明な判断ができなくなったり、誰かに助けを求めることができなくなったりする。こうした周囲とのつながりがない中で、自らの体に異変や病気が起きたとしてもひとりで抱えてしまい、最悪の場合、いきなり救急車で運ばれるほど重症になるまで悪化させてしまうケースも珍しくない。
前出の藤田孝典さんは、こう証言する。
「高齢者の方の生活支援の相談を受けるときには、まず相談にくる人の歯を見るようにしています。歯を見れば、その人が置かれている状況が一目で分かるからです。歯がない人は、治療に行く時間やお金がない状態で生活しているのではないかとか、歯がないと認知症のリスクが高くなるとも言われていますから、そういった面は大丈夫なのかとかお聞きすることができるんですね。ですので、歯がなくて咀嚼できない高齢者は要注意だということです」
また前出の増山由紀子さんは、高齢者になると、恥の意識などが働き、誰かに助けてほしいという声を上げにくくなることも「健康格差」の発見を遅くし、手遅れになることもあると指摘する。
「地域で見守りをする人とか、民生委員だったり、近所の人から『心配だ』という情報が、地域包括支援センターに伝わると、そこから病院や診療所につながるので診断できるのですが、ひとり暮らしの高齢者の方は、なかなか自分からは動けない。で、急に生活機能が変化した時にようやく動き出すということになります。ですから、あらかじめ病気に早く気づくっていうのが難しくなってるかなと。一度、地域包括センターにつながれば、そこから介護のケアともつながり、行政の福祉サービスともつながっていきます。つながりができてくると、少しずつ状況を変えていくことができるので、なんとかしたいところです」
総務省の国勢調査によれば、2015年現在、全国でひとり暮らし(単身世帯)の人は、1842万人。これは国民の7人に1人にあたる数字だが、中でも近年とりわけ増えているのが中年層や高齢者のひとり暮らしだ。
例えば、1985年に50代男性に占めるひとり暮らしの世帯の割合は5%だったが、2015年には18%と3倍強に増えた。50代男性の5人に1人弱がひとり暮らしということになる。また、女性では80歳以上に単身世帯が増えている。1985年は9%だったが、2015年には26%に上昇。80歳以上の女性の4人に1人がひとり暮らしになっている。中年層でひとり暮らしが増加するのは、未婚化が増えていることが最大の要因とされ、一方高齢者では子どもと同居しなくなった影響が大きいとされている。
老後を家族に頼ることが難しくなる中で「健康格差」に陥れば、即医療、福祉の問題へと発展し、最悪の場合は、命の問題に直結する可能性も孕んでいる。今後も、ひとり暮らしの高齢者が増えることが予想されており、高齢者における「健康格差」は「命」の格差になりうることをしっかりと認識しておかなければならない。
世界一の超高齢社会・日本
世界トップクラスの長寿国である日本。人々が長生きを享受できる社会は望ましいことだが、それは同時に、世界で例を見ない「超高齢社会」を意味する。今や日本人の4人に1人が「65歳以上」の高齢者。人口減少と高齢化が同時進行する中で高齢者の「健康格差」問題を読み解くために、その背景にある「介護」と「認知症」の問題について考えていきたい。
そもそも、日本の高齢化の何が問題なのか。それを丁寧に分析してみると、日本は平均寿命、高齢者数、高齢化のスピードという3点で、世界各国がまだ経験したことのない高齢社会へと歩んでいることがわかる。
まず平均寿命だ。厚労省作成の「簡易生命表」によれば、日本人男性の平均寿命は2013年で80.21歳と前年を0.27歳上回り、初めて80歳を超えた。これは香港(80.87歳)、アイスランド(80.5歳)、スイス(80.5歳)に次ぐ世界4位で、前年より順位を一つ上げた。
女性の平均寿命も前年より0.2歳延びて86.61歳となり過去最高を更新。2年連続の「世界一」となった。日本に続くのは、香港(86.57歳)、スペイン(85.13歳)、フランス(85.0歳)、スイス(84.7歳)などだ。平均寿命がさらに延びた背景には、各年齢でがんや心疾患、脳血管疾患、肺炎などの死亡状況が改善したことが挙げられる。
WHOによれば、人口の高齢化は世界的潮流で、2012年の世界平均寿命は、女性72.7歳、男性68.1歳で、1990年時点より6歳も長くなっており、高齢化は世界共通の課題ではあるが、とりわけ日本の平均寿命は、WHO加盟国の中で突出しており、「世界一の長寿国」とされる所以となっている。
次に高齢者の数を見て行きたい。内閣府がまとめた2017年版「高齢社会白書」によると、65歳以上の高齢者人口は2016年に3459万人となり、前年より67万人増えた。日本の総人口(1億2693万人)に占める65歳以上の高齢者割合(高齢化率)も27.3%と前年より0.6ポイント上昇し、過去最高を更新した。
男女別では、65歳以上の男性が1500万人、女性が1959万人。また75歳以上の人口は1691万人で、総人口に占める割合は13.3%。つまり、8人に1人が75歳以上の後期高齢者という状況である。
最後に、高齢化率を整理したい。すでに、日本の高齢化率は、他の国々が到達していない水準にあるが、これまでの高齢化のスピードが速いのが大きな特徴だ。一般に、65歳以上の人口が7%になると「高齢化社会」と位置付けられ、14%に達すると「高齢社会」と呼ばれる。日本はこの高齢化社会から高齢社会に至る期間が1970年から1994年までの24年間だった。欧州で最も高齢化が速いドイツでも、1930年から1972年まで42年かかっている。フランスでは1865年に7%に達した後、14%になったのは114年後の1979年といわれる。さらに2007年には高齢者の人口比が21%を突破した日本。21%を超えると「超高齢社会」と呼ばれることから、日本は世界一の超高齢社会を迎えたということになる。
国立社会保障・人口問題研究所の「日本の将来推計人口(2017年推計)」によると、高齢者人口は今後も増え、2042年に3935万人でピークを迎える。その後は減少に転じるが、高齢化率は上昇する。その結果、2060年には高齢化率が38.1%に達し、2.6人に1人が65歳以上となる。75歳以上も総人口の26.9%となり、3.7人に1人が75歳以上となる。2060年時点での平均寿命は、男性84.95歳、女性91.35歳になるとの予測だ。

こうしたなか、国や地方自治体は、高齢者の平均寿命を延ばす方策から、生涯のうちで病気や障害がなく過ごせる期間を意味する「健康寿命」を延ばす方策に転換している。
人生の最後をいかに過ごすかは、人間にとって極めて重要な意味を持つ。平均寿命も重要な数値だが、高齢者が自立して生活できる「健康寿命」の延長が重要な位置付けになってきているのだ。
介護の危機が目前に迫っている
自立して生活できる「健康寿命」を延ばす一方で、避けがたい問題となってのしかかってくるのが、介護の問題だ。健康を失い、死に至るまでの終末期を決定的に左右するのが「介護の質」。それが大きく揺らぎ始めている。
日本には介護保険制度があり、手厚いとは言えないまでも一定の質が担保されてきた。ところが、この介護保険制度がいま大きな曲がり角に差しかかっている。介護保険会計の急速な悪化により、介護サービスの水準がどんどん切り下げられ、十分な収入がない高齢者が極めて質の低い介護しか受けられない状況が生まれつつあるのだ。
いま日本の介護現場は危機的な状況に陥っている。健康な間はわずかな年金でやりくりをしていた高齢者が、健康を害して介護が必要になった途端に生活が立ち行かなくなってしまう事例が急増している。なぜこんな事態に陥ってしまったのか。
2000年、それまで家族が支えていた介護を、社会全体で支えようと始まったのが介護保険制度だ。介護がどれくらい必要かに応じて7段階に分けられ、それぞれに適したサービスを組み合わせて利用する。利用者の自己負担は原則1割だが、残りの費用は40歳以上が支払う保険料や税金で賄われている。問題はその費用の推移だ。制度が始まった当初、介護保険で使われる費用は年間3.6兆円だったが、今や10兆円にまで膨れ上がってしまったのだ。団塊の世代が全員75歳以上になる2025年には、21兆円にまで膨れ上がると推計されている。国の財政が厳しい中、このままでは介護保険制度そのものが立ち行かなくなるおそれがある。国はその増え続けている介護費用を抑えるため、2015年に大きく舵を切った。
まず、一定以上の収入がある人は、介護サービスを受ける際の自己負担が引き上げられることになった。前述したようにこれまでは自己負担の割合は、原則1割。それが、2015年8月から年金の収入がひとり暮らしで年間280万円以上、2人以上の世帯では346万円以上の場合は、原則2割負担になったのだ。
特養ホーム入所のハードルが上がった
国が介護費用を抑えるため、2015年に行った制度改革は自己負担の引き上げだけではない。公的な介護サービスを縮小するさまざまな政策が打ち出されたのだ。たとえば、2013年には全国で52万人が入所を希望して待機していた特別養護老人ホーム。これまで要介護1から5までの人が入ることができたが、2015年から原則として要介護3以上でないと入れなくなった。より要介護度が重い人に重点的にサービスを提供しようという国の方針によるものだ。それによって、要介護度が軽い人は、今まで通りの介護は受けられないかもしれないという。
2015年の制度改革の余波は、要介護度が軽い人が多く通うデイサービスにも及んでいる。今回の制度改革では、要介護度が低い利用者については、介護報酬が特に大きく引き下げられた。デイサービスは小規模の事業者が多いため、介護報酬の大幅な引き下げは経営に深刻なダメージを与え、全国各地で介護事業所の閉鎖や倒産が相次いだ。
番組が取材したあるデイサービス事業所では、人件費を抑えるために9人いる職員全員のボーナスをカットしたという。これまで通りのサービスを続けられるか、経営者は不安を感じていた。専門家は、「いろいろと経費を削減すれば乗り切れるのではないかとか、そんなレベルの問題ではありません。普通で言えば、サービスの質を低下させないと経営が維持できない状況」という。
介護保険の見直しは始まったばかりで、今後も利用者の自己負担はさらに高まり、介護報酬も減額されていく可能性が高い。平成28年度の国の予算で、国が負担する介護費用はおよそ2.9兆円。医療や年金と合わせた社会保障費はおよそ32兆円と、国の予算全体の3分の1近くを占め、国の財政を圧迫している。高齢者の増加や家族形態の変化により、公的な介護サービスを必要とする人口は年々増え続けている。今まで通りの規模で公的な介護サービスを実施し続けることは難しいのが現状だ。
このままでいったら、後期高齢者の数が2200万人ちかくに膨れ上がる2025年にはどうなってしまうのか。社会保障が専門で、介護の政策提言を行う淑徳大学教授の結城康博さんはこう予想する。
「公的な介護サービスがどんどん縮小すると、結局は貧困ビジネスとか、貧困ビジネス的な無届けの介護事業所とか、公的でないサービスを使わざるを得なくなります。そうすると、人権とかを無視されたような高齢者が増えてくると思うんですね。お金を持っている人はそれなりの介護を受けられるかもしれない。でもお金がない人は非常に貧しい介護生活をおくるというように、格差が拡大していくでしょう」
介護にかける費用「8万円の壁」
所得格差によって生まれる「介護格差」はすでに深刻なレベルに達している。典型的なのが、特別養護老人ホームなどに入所できなかった高齢者のその後だ。
特別養護老人ホームに入所できない高齢者の主な受け皿となっているのが、一般的な有料老人ホームだ。有料老人ホームは入居一時金がかかる所がほとんどで、1ヵ月にかかる費用の平均は、地域差があるものの約20~25万円といわれている。この価格設定では、たとえ20万円近い年金収入がある家庭であっても、毎月赤字になってしまう。ある程度の貯蓄があれば切り崩して生活できないこともないが、貯蓄が十分に無い人も多い。そうした人が自宅で介護しきれない状態になった場合、どうしても公的な介護施設に入所したいが、できない高齢者が出てきてしまう。
そこでやむを得ず選択されるのが、無届けの老人ホームだ。無届けの老人ホームとは自治体に届け出をせずに経営している介護施設のことで、自治体の定める基準を満たしていない施設のことをいう。入居一時金は無料か低額で、1ヵ月にかかる費用の平均は11~12万円程度(生活保護で払える限度)だといわれている。
無届けの介護事業所は、経営者の方針によって質に大きな差があるのが実情だ。中には良心的で、低料金ながらきちんと介護をしてくれる事業所もあるかもしれない。しかし無届けの介護事業所は、貧困ビジネスと呼ばれる悪質な組織であることが少なくない。入所者の手足を縛るなどの身体拘束を行い、新聞やテレビで虐待報道が出て問題になった事業所もある。2014年11月9日の朝日新聞朝刊で報じられた無届け有料老人ホームでは、ベッドに利用者の手足を縛りつけるなどして拘束したり、自由に動き回れないよう部屋のドアに施錠して閉じ込めるなどの虐待が行われていた。
貧困ビジネスに相当する無届けの老人ホームの多くは、居住スペースがベニヤ板で区切られていたり、食事はレトルトのカレーやコロッケなど出来合いの惣菜を当てがわれたりする。夜間のオムツ交換もなく、職員は無資格者であるため、介護のレベルも低い。健康で文化的な生活とは程遠く、そんな施設に高齢者が住み続けると、いずれ健康を壊すことが容易に想像できる。
国から認可されている民間の有料老人ホームに払う費用が捻出できる家庭は、基準を満たした施設で適切な介護を受けられる。しかしそれができない家庭は、場合によっては貧困ビジネスの世話になることもあり得るのだ。認可されている有料老人ホームの平均費用と、無届けの老人ホームの平均費用の間には、月約8万円の隔たりが存在する。この8万円が介護格差に直結し、老年期の「健康格差」となって我々に押し寄せてくるのである。
人材不足と地域格差
一方、介護業界には、それ以外にも深刻な問題がある。介護業界の人材が不足していることだ。たとえベッドに空きがあっても、介護職員の数が足りなくて新たな入所者を受け入れることができない施設もある。
岐阜県にある特別養護老人ホームでは、現在79人が入所し、更に210人が入所を希望し、待機している状態だ。そのため昨年、新たに増築してベッドの数を増やした。ところが、増築部分のベッドは全て空いたままになっている。施設長に事情を聞くと、人手が足りないため、これ以上入所者を受け入れることができないのだという。
こうした介護業界の人材不足の大きな理由のひとつが、賃金だ。厚生労働省が2015年に実施した賃金構造基本統計調査によると、介護職員の平均月収はおよそ22万円。この数字は全産業の平均月収と比べ、10万円以上も低い金額だった。それに加え、介護の現場は夜勤も多く、不規則で重労働である。
こうした原因により介護職員の離職率は16.7%と、以前よりは改善されたものの、高どまりしたままだ。実は、日本にはヘルパーなど介護の基礎的な資格を持つ人が380万人以上いると言われているが、実際に介護の現場で働いているのは177万人に留まっている。厚生労働省の調べでは、このままだと2025年にはおよそ38万人も介護人材が不足するという試算だ。これでは介護難民は増える一方になると予想される。
東洋大学准教授の高野龍昭さんは、介護をとりまく地域格差が問題を複雑にしていると指摘する。
「私が気になっているのは後期高齢者の増え方が地域によって違うことです。当然、地域によって起こる問題が違うので、対処策を変えていかなければならない。具体的には東京とか埼玉、千葉、神奈川や大阪などの都市部には、後期高齢者の数が2025年には2倍以上、2030年には3倍近くになる自治体があるんですね。そうすると介護サービスが全然足りなくて、施設不足や介護人員不足による介護難民が出てきます。ただその一方で、もともと高齢化が進んでいた島根とか山形とかでは、これから後期高齢者があまり増えないんです。増えないどころか、市町村単位で見たらすでに減り始めていたり、2030年には半減すると推計されている自治体もある。後期高齢者が減るということは介護サービスの利用者、すなわちお客さんが減ってしまいますから、そういうところでは、今ある介護サービス事業所の経営が成り立たなくなるということも考えられます」
認知症社会の到来
もうひとつ将来の「介護格差」を考えるうえで見過ごせない重大な問題がある。高齢化の急速な進展に伴う認知症の人の急増だ。
厚生労働省の調査によると、認知症高齢者の割合は年々増え続けている。その数は2012年に462万人とされているが2025年には730万人にまで増えると推計されている。

さらに取材班が、医療関係者や専門家に聞き取り調査を行ったところ、この試算はまだ控え目なほうで、認知症の予備群といわれる「軽度認知障害(MCI=mild cognitive impairment)」になる人の数を加えると、2025年には1300万人が認知症ならびに認知症予備群に該当するという試算が出た。これは国民の9人に1人、65歳以上に限れば、実に3人に1人の割合だ。
1300万人と言えば、2016年時点の東京都の人口1362万人に匹敵する。これからわずか8年後に、首都東京に住む人々と同じ数の認知症とその予備群の人が日本で生活することになる。
こうした社会の到来を前に、認知症と診断されることが、絶望ではなく希望になるような社会にしていく必要がある。いわば認知症に対する社会の考え方そのものを転換しようというものだ。いま、「早期発見」が「早期絶望」につながっているという実態がある。認知症=何もわからなくなる、認知症=人生の終わり、といった決まり切ったイメージが世の中にあふれ、そのために、その後の人生に生きる希望を見出せないというのだ。
認知症=何もわからなくなる、認知症=人生の終わり、という見方からいくと、周囲の負担が大きくなる、介護が大変、というとらえ方しかできなくなる。つまり、認知症の人が支えられる一方の存在だと見る限り、介護の人材不足といった問題ばかりが取り沙汰されてしまうことになるのだ。
しかし現実には、認知症があっても、普段と同じように暮らしている人や、働き続けている人もいる。行きたい場所があったり、得意なことがあったり、毎日を楽しくいい時間にしていこうと意志を持って生きている人がいる。そうした認知症の人の意志を無視し、「問題行動だ」「介護が大変だ」と見られてしまっていることが少なくない。いわば、認知症=介護が大変というイメージは、社会がつくっているとも言える。
これからは、本人が「与えられる医療や介護」から、自分たちが「こう社会と関わりたい」という意志を発信し、自らつくっていく、そんな社会にしていくことが必要になってくる。具体的には、認知症の人と一緒に町をよく見て、一緒に何ができるか考えていく。そして、周囲がそれをサポートする。たとえば、ひとり暮らしの認知症の人がいるならば、コンビニや宅配の人が気づいて見守ったり、本人が同意すれば役所に連絡を入れるなど、一人一人が、無理のない範囲内で気づいたことをやるといった認知症の人への関わり方を社会の「標準装備」にしていくことが必要だ。
高齢者に対する「健康格差」を少しでもなくしていくためには法制度だけでなく、社会のあり方そのものも転換していくことが求められている。
3 子どもに迫る危機
子どもの貧困
最後は、日本の未来を担う子どもたちに及ぶ「健康格差」の実態を見ていく。
子どもの「健康格差」は、その家庭の所得状況に連鎖していくことが、私たちの取材で明らかになってきた。すなわち「子どもの貧困」問題と子どもの「健康格差」問題は、密接に関わっているということだ。
子どもの栄養状態と「肥満」
厚生労働省の乳幼児栄養調査によると、経済的にゆとりがない家庭では、ゆとりがある家庭に比べ、お菓子やインスタントラーメン、カップ麺がより多く食べられ、魚、大豆製品、野菜、果物はあまり食べられていないことがわかった。

たとえば、経済的に「ゆとりがある」と「ややゆとりがある」と回答したグループ(全体の29.3%)の家庭の子どもの49.5%が魚を週4日以上食べていたのに対して、「あまりゆとりがない」「まったくゆとりがない」と回答した家庭の子どもは34.7%で、15ポイントも低かった。一方、菓子や菓子パンを毎日食べる子は、生活にゆとりがないグループに多く、インスタント麺・カップ麺をまだ食べたことがないと回答したのは、生活にゆとりがあるグループに多かった。
またある研究では、生活にゆとりのない家庭の子どもは、肥満率が高い、虫歯の数が多い、運動習慣がないといったことが明らかになっている。
いわゆる貧困家庭の子どもと聞くと、真っ先に痩せているのではないかと連想しがちだが、むしろ太る傾向が強いと管理栄養士の佐々木由樹さんも指摘する。
「年収300万円以下が多いとされる、ひとり親の家庭でよく見られます。お金に余裕がなくても、しっかりと食べさせたいという親の心理が働くのでしょうか。『食事の量が少ないのはかわいそうだ』と、高カロリーの食事をさせようとするため、子どもが太りがちなんです」
肥満した子どもは、一見すると栄養状態が良好とされがちだが、実際には食の質に問題を抱えている場合が多いことがわかる。1日3食のうち、公立の小中学校であれば、1食は学校給食がまかなっているため、3食すべてに事欠くような状況にある家庭は少ないとされる中、残り2食で何を食べているかが重要になってくる。そこで、幼年時代から高カロリー食に慣れてしまうと、肥満をきっかけに、生活習慣病を発症するリスクも高くなってしまう。
こうした子どもの貧困と「健康格差」の深刻さは国も認識しており、さまざまな対策に取り組んでいる。
子どもの「健康格差」を是正する具体的な対策として注目されるのが「こども食堂」だ。「こども食堂」とは、経済的な理由から、家で満足な食事をとれない子どもに温かい食事を提供することを目的に作られたボランティア事業だ。こうした施設を利用すれば、子どもたちは無料もしくは1食数百円程度の負担で栄養バランスがとれた食事をとることができる。また多くの施設では保護者も格安の料金で食事をとれる。
貧困家庭の中には、親の仕事の都合で、子どもがひとりだけで食事をとるケースも多い。栄養面に配慮した食事を作り置きできる余裕が親にはないので、どうしてもカップ麺や食パンなどのお手軽な食事に頼りがちだ。「こども食堂」では、子どもが抵抗なくひとりでも入れる雰囲気作りを行い、栄養面に配慮した手作りメニューを用意しているところもある。栄養満点の温かいごはんをつくって待っているのは、近所の住民たち。そのため、食事だけではなく、防災や防犯といった、いざというときの地域のセーフティーネットとしても機能することを目指している。
社会運動のトレンドになりつつある「こども食堂」だが、課題もある。運営の仕方や手法をひとたび間違えると、利用する子どもに施しを受けているような感情を抱かせる危険性があるためだ。大人たちが善意で行ったことが結果的に「あの家庭は、『こども食堂』に行っている家庭だ」と、子どもの心を傷つける恐れがある。そのため、運営団体の多くは利用者の資格をあえて限定せず、貧困家庭以外の家庭の子どもや親でも利用できるようにするなど、地域に根付かせる配慮をしている。
日本の子どもの6人に1人は貧困
「健康格差」をきっかけに、子どもの貧困について調べると、驚くべきことに、日本の子どもの貧困は世界の先進国で最悪レベルにあることがわかる。子どもの貧困のひとつの指標として、「子どもの相対的貧困率」がある。国民の年間所得を多い順に並べて真ん中の数値の半分=122万円に満たない世帯で暮らす17歳以下の子どもの割合をさす。親子2人世帯の場合は月額14万円以下(公的給付含む)の所得しかない家庭だ。子どもの貧困率は、1980年代から右肩上がりに上昇しており、2012年時点で16.3%に達した。実に6人に1人の子どもが貧困状態にある。
これはOECD加盟35ヵ国中11番目に高く、OECD平均を上回っている。子どもがいる現役世帯のうち大人が1人の世帯(要はシングルマザーあるいはシングルファーザー)の相対的貧困率はOECD加盟国中最も高い。
子どもの貧困を放置すれば、国家に経済的ダメージを与える危険がある。貧困家庭の子どもは、食事、学習、進学などの面で一般家庭に比べて不利な状況に置かれるため、将来も貧困から抜け出せない傾向が強い。
シンクタンク「日本財団」の推計によると、貧困状態にある子どもに教育などの支援を行わなかった場合、個人の所得が減る一方で、国の財政負担が増えることから、経済や国の財政に与えるマイナスの影響=「社会的損失」は、15歳の子ども全体の場合、40兆円にのぼることが初めて明らかになった。進学率の低迷、生活保護や社会保障費の増加など、社会全体のリスクとして捉えるべきと専門家も指摘している。
「子どもの貧困」は、経済上などの理由から生活が困難になっている世帯のことをさすが、一見するとその状態が把握しにくいことから「見えない貧困」と言われ、実態が正しく認識されづらい状況にある。その理由として、ファストファッションや格安スマホなど物質的な豊かさによってその実情が粉飾されてしまうことや、高校生のアルバイトなど子どもたち自身が家計の支え手になっていること、また、本人が貧困を隠すことから、教師や周囲の大人が気づきにくいことなどが挙げられる。
こうした「見えない貧困」を可視化するための手段として紹介したいのが、今年3月、東京都大田区が、首都大学東京教授であり子ども・若者貧困研究センター長も務める阿部彩さんの監修のもと実施した「大田区子どもの生活実態に関するアンケート調査報告書」だ。調査は、区内の公立小学校(59校)に在籍するすべての小学5年生とその保護者が対象で、保護者から見た子どもの状況の把握のみならず、子ども自身が感じる生活実態を把握することが重要との視点から、子ども自身も調査に参加している点が特徴だ。図1‐8は、大田区による「生活困難層」の定義である。

この定義によれば、大田区の子どもの21.0%が「生活困難層」であり、約5人に1人が貧困状態にあることになる。
大田区は、東京23区一の面積を誇り、区内に東京国際空港(羽田空港)やトラックターミナル、コンテナ埠頭、大田市場などといった大規模施設を軸に、中小工場を擁する「ものづくり」の街である。その一方、高級住宅街と呼ばれる田園調布や雪谷、久が原といった緑あふれる住宅地や多摩川河川敷など、住宅環境も充実した自治体である。
こうした産業にも住宅にも恵まれた大田区でも「子どもの貧困」状態が、まるで当たり前のように横たわっている現実は、「子どもの貧困」がある特定の地域だけの問題ではなく、日本全国どこの自治体でも当てはまる、大きな社会問題になっていることを示している。
実は、40兆円にものぼる損失の中には、本書で取り上げる「健康格差」が生み出す損失は含まれていない。「健康格差」の問題が認識されたのは比較的最近であることにくわえて、子どもの「健康格差」が顕在化するまでに長期間を要するため、「健康格差」がどれだけ経済的損失を生むのかが不明なためだ。しかし、貧困状態にある子どもたちが6人に1人いるとすれば、多くの子どもが、食生活で重大な問題を抱えていることと関連づけても違和感はないだろう。日本の将来を考える上で、大変憂慮すべき問題だと考えることができる。
4 日本社会が抱える「時限爆弾」
全世代が背負う重荷
ここまで、現役世代から、高齢者、そして子どもとすべての世代に横たわる「健康格差」の実態について見てきた。こうした現場から感じ取れることは、人生それぞれの段階に「健康格差」の要因が忍び寄っていることである。さらに、高齢者はもとより、これまで医療とは縁遠かった現役世代や子どもたちにまで及ぶ「健康格差」の問題が近い将来、巨大な負のうねりとなって、日本の医療や福祉といった社会保障に押し寄せてくる可能性があるということも同時に感じ取っていただけるだろう。
逼迫する社会保障費
すでに、日本の医療介護行政は、急速な高齢化で財政的に逼迫した状態にある。厚生労働省の発表によると、平成25年度の国民医療費(保険料や自己負担分の金額、税金の総計)は、史上初めて、40兆円を超えた。そして、その半分以上の23.1兆円は65歳以上の高齢者のために使われている。さらにいうと、75歳以上の後期高齢者だけで、3分の1以上の医療費が使われている。(平成25年度国民医療費の概況 厚生労働省)
これは単に「高齢者の人数が多いから」というだけの話ではない。1人当たりの医療費で見ても高齢者の医療費は他の年代に比べて著しく高い。日本人全体の平均で見ると、国民1人当たり、年間での医療費は31万円ほどだが、年代別の平均値でこれを上回るのは、65歳以上の高齢者のみである。15~44歳では、全体平均のわずか3分の1ほどである約11万円しか医療費が必要ないのに、75歳以上ではその8倍以上、90万円もの医療費が必要になっている。(平成25年度国民医療費の概況 厚生労働省)
こうした高齢者に偏りがちと言われる医療費の問題をどうするかという社会的な状況にくわえて、これまで健康であったはずの現役世代や子どもたちの世代にまで医療の負担が増える事態となれば、社会保障の破綻は避けられない。
全国14万人の高齢者を対象とする大規模調査プロジェクト「JAGES」(Japan Gerontological Evaluation Study 日本老年学的評価研究)の代表で「健康格差」研究の第一人者である近藤克則・千葉大学教授は、こう警告を発する。
「貧困、非正規労働、単身者の増加に伴い、健康面で大きなリスクを抱えている人たちが出ている現状がある。もし、このままの状態を放置すれば、『健康格差』はいっそう拡大し、将来健康を損なう人が続出する可能性があります。例えば、生活保護の受給でいうと、開始理由のほとんどは病気がきっかけです。健康状態が悪い人たちが増え続ければ、20年も経てば、健康を失った若い世代の生活保護率が急増し、社会問題として火を噴くでしょう。そうなれば、無年金で仕事もできず、住まいもない人が100万人単位、1000万人単位で増える可能性もあります。
『健康格差』は生涯を通じて徐々に蓄積されていくので、問題が顕在化してから対策に取り組むのでは取り返しがつきません。予防するためには早く対策を打つしかありません。この問題に、まだ気がついていない人が多いだけで、日本社会は時限爆弾を抱えているのです」
すべての世代に忍び寄る「健康格差」。問題がこれまで以上に顕在化する前に、対処が必要だということをおわかりいただけただろうか。
第2章以降の本文は「現代ビジネス」の『健康格差 あなたの寿命は社会が決める』全文公開プロジェクトをご覧ください。
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