ソーシャルメディアはプラットフォームかメディアか

 その状況は、“フィルターバブル”で加速している。

 FBはユーザーの興味や嗜好に応じてAIがニュースフィードをカスタマイズしており、ユーザーに関心のある情報を流そうとする。これが加速すると、ニュースフィードがたこつぼ化し、異なる意見や価値観に触れる機会がなくなっていく。つまり、新興の極右思想「オルトライト」に共感するユーザーには右寄りの情報が流れ、レディーガガのファンにはリベラルな言説ばかりが現れる。バイラルメディア、アップワージーのCEO、イーライ・パリサーが『フィルターバブル』で警鐘を鳴らした現象だ。

 新聞にも右から左まで色はあるが、基本的に紙の新聞は網羅的で、ざっと読めば前日に起きたことが関心のないことも含めてとりあえず把握することが可能だった。だが、現在は自分が必要な情報を選択的に取りに行くか、フィードに流れるおすすめ記事を見るのが普通だ。これはもはや善し悪しではなく、技術の進化とパーソナライゼーションという時代の流れだろう。

 もっとも、異なる価値観や考え方を理解しなければ討論も合意形成もできない。それぞれがそれぞれの好きな情報に浸かっていることで、それぞれが急進化しているのが現状だとすれば、米国の民主主義は長期的に弱体化していく。

 今回のFB問題にはもう一つの争点が横たわっている。FBなどのソーシャルメディアはプラットフォームとメディアのいずれなのか、という問題だ。

 「われわれはテクノロジー企業」。今回の公聴会でFBが改めて主張したように、FBは自身をメディア企業だとはみなしていない。「真実の裁定者にはなりたくない」とザッカーバーグも語っている。コンテンツの選択と分類は編集であり主観を伴う。好意的に解釈すれば、そういった主観を排除した、真にオープンな場を実現したいという強い決意の現れだ。

サンドバーグをワシントンDCに送り込むも沈静化せず

 他方、今の高収益体質を維持したいがための方便と見る向きも多い。「コンテンツを作り、その対価として広告費を得ていれば、それはメディアだ。FBは高い利益率や社会的な影響力を謳歌しているが、メディアとしての責任を受け入れていない」。ニューヨーク大学スターンスクール(経営大学院)のスコット・ギャロウェイ教授は批判する。

 伝統的なメディアは事実確認や校閲、広告のチェックに多くのリソースを割いており、自動化の進んだセルフサービスのFBと比べれば必然的に人件費がかかる。そこにかかっている人件費や作業効率が妥当かどうかはともかく、そういったチェックは対価を得てコンテンツを発信しているメディアの責務と一般には捉えられている。

 プラットフォームかメディアかという議論は今に始まった話ではない。疑義が呈されるたびに、FBはその政治力を利用して切り抜けてきた。だが、ロシアによる選挙介入の舞台として悪用された今となってはその主張は説得力を欠く。「そういう区別は大半には通じないだろう」。公聴会で共和党上院議員のジョン・コーニンはこう語った。

 突き詰めれば、FBに対する怒りは影響力に対する責任を巧みに逃れていることにある。FBは同社のアイコンでもあるCOO(最高執行責任者)のシェリル・サンドバーグをワシントンDCに送り込み沈静化を図ったが、議会の批判は長期化の様相を見せ始めた。実際に規制が導入されるかどうかは現時点では不明だが、来年11月の中間選挙で同じような問題が起きれば、さらなる批判に晒されるのは必至だ。これまでイノベーションの担い手として高い評価を受けてきたFBだが、その評価は反転しつつある。

(文中敬称略)