(写真:読売新聞/アフロ、1998年撮影)
(写真:読売新聞/アフロ、1998年撮影)

 評論家の犬養道子さんが7月24日、亡くなりました。96歳でした。犬養さんは、「五・一五」事件で暗殺された犬養毅・元首相の孫で、世界の難民救済などに尽力する一方、自ら滞在した欧米での体験を描いた『お嬢さん放浪記』など多数の著作で知られています。

 日経ビジネス編集部は2014年12月29日号で、『遺言 日本の未来へ』と題した特集を掲載しました。日本が戦後70年を迎えるにあたり、日本の経済的復興を目撃してきた戦前・戦中世代から、日本の未来へ「遺言」を託してもらう企画でした。その取材で、犬養さんにもお話を聞く機会を得ました。

 犬養さんは当時93歳。体調が万全ではない中、ベッドに横になったまま取材に応じてくださいました。その際、五・一五事件を境に軍部独裁へと傾いていった当時の日本よりも、現代の方が息苦しいのではと、はっきりとした口調で問題提起していたことが印象的でした。

 『遺言 日本の未来へ』では、取材に応じていただいた方々に、未来に託す言葉を色紙に書いてもらいました。犬養さんが選んだ言葉は「恕(じょ)」。他人の心情を察し、思いやるという意味の言葉です。この言葉は、祖父である犬養毅・元首相が暗殺される数日前に、犬養さんに託した言葉でもありました。

 2014年12月29日号の記事の一部を再掲載し、犬養さんが「恕」という言葉を未来に託した思いを振り返りたいと思います。

 ご冥福をお祈りいたします。

 その女性はベッドに横になったまま、それでも力に満ちた口調で語り始めた。犬養道子、93歳。第29代内閣総理大臣の犬養毅を祖父に持ち、戦争に向かっていく日本の中枢を、幼心に見つめていた人物だ。

 「失礼な言い方だけど、今の世の中は型紙の中に押し込められているみたい」

自由が天窓を開け放つ

 今の日本を停滞感が覆っているのは確かだろう。1991年にバブル景気が崩壊。2002年からの景気拡大「いざなみ景気」も、米国のサブプライムローン問題をきっかけに発生した金融危機でついえた。長いデフレと景気低迷は、日本社会に重苦しさをもたらしている。

 この間、多くの日本人は「強いリーダー」の登場を待ちわびていた。明確なビジョンと強いリーダーシップを持って、この暗雲を取り払ってくれるような存在を、だ。だが現段階でそれを完全に体現したと言える人はいない。

 一体、何がいけないのか。

 犬養毅は満州事変の翌1931年に総理就任。強硬姿勢を強める軍部に対し、対中融和路線を推進し、32年の5月15日、総理官邸に押し入った軍の将校らによって銃撃される。「五・一五事件」だ。

 致命傷を負い、血まみれになっても、駆け付けた女中に「呼んで来い、今の若いもん。話して聞かせることがある」と話したという元総理には、一般には強い政治家との印象がある。だが孫娘からの見え方は異なる。「強いとかそんなんじゃない。おじいちゃんは優しい人だった」。

 犬養毅は死の数日前、わざわざ時間をとって道子に1つの書を与えた。書かれていた文字は「恕(じょ)」。他人の心情を察し、思いやるという意味の言葉だ。道子は2014年、同じ言葉を未来の日本に向けてしたためた。

 「犬養の家で本当に良かったと思うのは、人間に差がなかったこと。当時はお便所にくみ取りの人が来るでしょ。うちにはいつも朝鮮の方が来ていた。ある時、ママに言われて飴玉をあげたの。そしたら、おじさんの目から涙がこぼれた。それで私、日本人も人を悲しませているって気付いたの」

 戦後、欧米でも学んだ道子は続ける。

 「人は違えば違うほど、ありがたいんですよ。どこまでそれを受け取れるか、ということです。当時のいつ殺されるか分からないって時、おじいちゃんは一人でふらりと散歩に出て、子供と話して『お菓子が足りないみたいだ』なんて言って帰ってきた。のんきと言えばのんき。今は、その自由が無くなった」

 五・一五事件を契機に、日本は政党政治から軍部独裁へと大きく傾いていく。だが、そうした時代と比べても現代の方が息苦しいと道子は言う。

 「パパは自由や個性を徹底的に追求する白樺派の作家だった。うちにも来ていた芥川(龍之介)さんは白樺派を『ゆきづまった文壇の天窓を開け放って、さわやかな空気を入れた』と言った。当時、少なくとも私の周りには自由があって、人が縄でつながれているような雰囲気はなかった。まっすぐに自我を肯定する人たちの手で、天窓は開かれていた」

 戦後、物質的には豊かになり、消費の選択肢は増えた。現代の我々の暮らしは世界的にも豊かで、決して統制されてもいない。それでも、この国にはどこか息苦しさがある。

 戦後の様々な政策に関与した堺屋太一は「日本は世界一安全。けれど全然楽しくない」と話す。オリックスのシニア・チェアマン、宮内義彦は「戦争への過度な反省から、逆の極端に来てしまった」と言い、公共の利益の重要性を指摘しにくい雰囲気の存在を指摘する。アース製薬特別顧問の大塚正富は「アートがないと、人の心は捉えられない。最近の商品はアートがない」とし、元首相の村山富市は「民主主義が退化している」と嘆く。

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