「長寿ニッポン」を支える制度作りにも寄与

日野原重明氏は、「長寿ニッポン」を支える制度の定着にも貢献した(写真:村田 和聡)

 戦後間もない1947年、日本の医療事情は劣悪で、病院も医師も薬も、すべてが不足していた。日本人の平均寿命は男性50.1歳、女性54.0歳だった。

 そんな時代にいち早く、「病気を治す」ことではなく「病気にならないこと」に注目した医師がいた。聖路加国際病院の橋本寛敏元院長と、国立東京第一病院(現国立国際医療研究センター)の坂口康蔵元院長である。日野原重明氏は橋本院長の右腕として予防医療の制度立ち上げに奔走した。

 「病院は病気の人が来るところというのがそれまでの常識でしたが、病気を予防するためには健康な人が病院で受診する必要があるのです。寿命が延びていけば、やがて健康な人がどう老いていくかという問題が重要になると我々は考えました」
 「最初は『定期健康検査』と呼んでいましたが、これを聞きつけた新聞記者が船を点検・修理するドックからの連想で『人間ドック』と書き、いつの間にかこの呼び方が定着しました。最初の利用者は政治家です。政権についている時の政治家は激務に追われますが、内閣が辞職するとしばらく暇になる。その期間に『体のお手入れをされたらどうですか』とお勧めしたのです」

 聖路加の内科医長だった日野原氏は、国立東京第一の小山善之医長と組んで、人間ドックの仕組み作りを進めた。人間ドックを健康保険の対象にしてもらうため、日野原氏と小山氏は東京・乃木坂にある健康保険組合連合会の本部にも通った。

 血圧測定、血液検査、検尿、心電図、レントゲンといった健康診断の定番メニューはこの時に固まった。

 「今は技術が進んだおかげで、日帰りでほとんどの検査が受けられますが、当時は検査機器の性能が劣っていたので、検査をするのに1週間かかりました。優れた装置がなくて、当初は肝臓の検査はできませんでした」

 こうして54年、国立東京第一と聖路加は日本初の人間ドックを開始した。両病院合わせて7床でのスタートだった。

 「健康な時に病院に行くという習慣は、当時の日本人にはありませんでした。我々は病気を予防したり、早期に発見したりするためには、自覚症状がなくても定期的に健診を受けた方がいい、という考え方を日本中に広めなくてはなりませんでした」

 人間ドックを普及させるうえで、国民の誰もが名前を知っている政治家に受診してもらうことは大いに効果があった。ある日、とある大物が聖路加の人間ドックにやってきた。読売新聞のオーナーで衆院議員も務めていた正力松太郎氏である。

 「1週間の健診の最後に会食の時間があったのですが、正力さんに会いたい人たちが皆さん受診に来ましたよ」

 この頃から日野原氏は正力氏の主治医になり、正力氏の最期をみとることになる。こうしてまずは政財界の有力者から始まった人間ドックが徐々に一般の人々にも広がり、「長寿ニッポン」を支える制度として定着していく。

日野原重明の「生き方教室」
第4回 健康は自分で守る。医師に頼りきりではいけません
第5回 疲れたなどと言っている暇はないのです

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