非常に重い決断が下された。「西洋文明の終わりの始まり」(EUトゥスク大統領)は大袈裟としても、長大な欧州統合の歩みに照らしても、また、ごく短期的なビジネスの実務にとっても、BREXIT(ブレクジット)によるダメージは甚大だ。ただし、今回の国民投票はそれ自体が即時的・明示的な法的拘束力を持つものでない。そのため、次の焦点は、正式離脱のプロセスやタイミングを巡って、英国政府・議会がどう動くかに移る。具体的には、キャメロン首相による正式な離脱通告、すなわちEU脱退の法的根拠となるEU基本法第50条の発動を欧州委員会へいつ通告するのか、が目先の最大関心事となる。
これについては、首相辞任や総選挙前倒し、果ては国民投票再実施の“流言飛語”も飛び出す議論百出の状況にあり、現時点で定見を持つことは難しい。また、仮に離脱が直ちに正式通告されたとしても、英国と欧州委員会の交渉期限は2年と定められている。つまるところ、「離脱」の投票結果は、EUの枠組みや機能、そして、それに基づくビジネスを再定義・再構築する気の遠くなるような作業着手のゴーサインでしかない。今の金融市場にとって確実なことは「不確実性が極めて高くなった」ということだけの状況だ。
こうして、キャメロン首相が「離脱は暗闇に身を投じるようなもの」と警告した通り、英国民は自ら、数年に及ぶ混沌とした暗中模索の時代への突入を選択してしまった。「離脱」に対する市場の事前の織り込みは決して十分とは言えず、為替を始めとする英ポンド資産の大幅調整はもちろんのこと、グローバル金融市場でも投資家のリスク回避行動が拡散し、当面は極めて神経質でボラタイルな市場環境となるだろう。
長い前置きになったが、以下で確認する通り、当面の「日本市場への影響」は、外国為替市場のチャネルを通じてのものが何と言っても大きい。リスク回避の「受け皿通貨」として円高は不可避となるが、そうした偏った急激な相場の動きに対して、今の日本は打つ手が少なくなっている。円高の定着は、アベノミクスやデフレ脱却に対する限界論が浮上している今の日本にとって、大きな痛手となるだろう。
主要中銀の協調行動で流動性危機は回避
順に整理してみよう。今回のようなテール・イベント(生起確率は極めて低いが、発生すれば甚大な影響を及ぼす事象。正規分布図の端=テールを指す)が発生した場合、金融市場にとって想定され得る最悪の事態は、大規模なリスク回避行動が深刻な信用収縮に発展し、機能不全に陥った市場で流動性が枯渇する展開だ。
しかし、報道などによれば、日銀を始めとする主要6中銀はドルの緊急資金供給の協調策で備えている模様である。通貨スワップ協定と呼ばれるこの枠組みは、欧州債務危機が最も深刻化した2011年11月に拡充された制度。2000年代半ば以降の度重なる金融危機を経て、グローバルな資金供給の安全網は格段に体制整備が進んできている。これを前提とすれば、リスク回避の拡散は、リーマン・ブラザーズの破綻時や欧州債務危機の最悪期のような「劇症型」にはならず、仮に深刻化してもごく一時的・局所的に留まると見て良いだろう。
加えて、当時と異なり現在の金融市場は、日欧の中銀が大規模な量的・質的緩和を実施中の超緩和的環境にある。離脱の投票結果が即座に真性の「流動性危機」へ発展する事態は回避される、と考えている。
リスク回避の円買いで「異次元緩和」前に逆戻り
その一方で、初期反応として最も顕著で劇的な反応が現れるのが外国為替市場だろう。信用収縮や流動性危機に至らずとも、リスク回避行動の拡大によって「逃避通貨」への選好が大幅に進む事態は避けられない。各種世論調査から「離脱」の可能性が決して小さくないことを承知していたものの、筆者も含め多くの市場関係者が「最終的には残留で決着する」とタカをくくっていた。つまり、市場の事前の織り込みは十分ではなく、それは、例えば、英ポンド相場の意外な程の下げ渋り、あるいは、英国株価指数FTSE先物の予想変動率が低位で推移していたことなどにも明らかだ。
織り込みが不十分であったテール・イベントが現実になってしまった衝撃は容易には収まらず、また、冒頭既述の通り、離脱交渉の先行きは霧の中どころか闇の中だ。リスク回避の定石として、外国為替市場では、「安全な避難港としての円買い」が大幅に進む。過去のリスク回避局面を参考に雑把な類推をすれば、初期反応だけでも3~5円程度の円高は覚悟する必要がありそうだ。となれば、ドル円相場は100円突破。実際、本日(6月24日)の昼には、一時99円近辺まで急騰した。黒田日銀が2013年4月に異次元の「量的・質的金融緩和」を発表した当時の円高水準へ、逆戻りしてしまうこととなる。
希少化するリスク回避の「受け皿」通貨、円が最強に
ところで「逃避通貨=safe haven currency」とはそもそも何であろうか。教科書的には、それは、潤沢な対外純資産を持つ経常黒字国通貨であり、かつ、国際通貨として決済や表示、そして、価値保蔵の機能などが一定の信認を得ている通貨、となる。対外純資産残高では、日本、中国、ドイツ、スイス、香港が世界の上位5か国だが、国際通貨の観点で人民元と香港ドルを除くと、残るは円、ユーロ、スイスフランの3通貨。基軸通貨であるドルを別にすれば、実際にこの3通貨がここしばらく逃避通貨として機能してきたことは周知の通りである。
しかしながら、ブレクジットによって、ユーロも英ポンドに次ぐテール・イベントの「当事国通貨」になってしまった。ユーロ圏では、この後選挙が予定されているスペインやイタリアなどで反EU派が勢いづくことも警戒されており、経済活動への悪影響もさることながら、政治的にもユーロ売り圧力が強まる可能性は高い。ユーロがリスク回避の「受け皿通貨」として復活するには、しばらく時間がかかりそうだ。
他方、スイスフランについては、スイス国民銀行(中央銀行)が投票前から早々に介入の用意があることをほのめかすなどしている。となれば、今回テール・イベントによるリスク回避の「受け皿」は、消去法的に、円とドル、となる。
ただし、今のドルは米当局からの通貨高牽制が目立ち、その意味でやや買い安心感に欠く通貨となっている。米連邦準備理事会(FRB)は先週15日に発表した米連邦公開市場委員会(FOMC)声明、あるいは、今週22日のイエレン議長議会証言などで、この先の利上げペースについて明らかに慎重なシグナルを送っている。また、米財務省は「半期為替報告」で日本を含む5カ国を為替操作上の「要監視国」に指定し、ドル高を牽制。更に、米大統領選挙の有力候補はいずれもドル高に極めて不寛容な保護主義的公約を打ち出している。こうして、リスク回避の「受け皿通貨」が希少化していることで、円は消去法的に「最強通貨」の地位に祭り上げられてしまっている。
円高は「デフレ脱却」の取り組みを阻害
ドル円相場が2013年4月以降で初めての「100円割れ定着」となれば、それはブレクジットが要因とはいえ「黒田日銀による異次元緩和の円高是正効果が無に帰した」象徴的な出来事と受け止められる可能性がある。また、円相場は既に年初の高値から15円以上も上昇しており、象徴的意味合いを通り越して、実際にデフレ圧力再燃による物価への悪影響も懸念される。この点については国際通貨基金(IMF)も「為替の増価はデフレリスクの低減に向けた取り組みを阻害する可能性がある」と今週20日発表の対日経済審査(いわゆる「4条協議」)で指摘している。離脱の英国民投票結果は、為替のチャネルを通じ主として物価動向に影響を与え、日本経済にとって無視できない悪影響を及ぼす可能性がある。
また、「円安でも輸出は伸びない」として一部に根強い円高許容論があるが、非製造業の海外進出も増える中、円換算ベースでの海外事業収益が減少するなど、円高のデメリットはやはり大きい。そのため、円高進行が急激かつ大幅なものとなれば、日本の当局による政策対応が注目される。特に金融政策面では、次の日銀金融政策決定会合開催日である7月28、29日を待たずに、緊急会合が召集されるとの期待が強まるだろう。
ちなみに日銀の緊急会合は総裁が必要と認めた場合、あるいは、政策委員の3分の1以上が必要と認め、総裁に召集を求めた場合に開かれることとなっている。しかし、日銀の追加緩和については、マイナス金利政策の不人気もあってその手段が限られているばかりか、年間80兆円の国債買い入れという現行政策の持続性にも技術面から黄信号が点灯している。有効な手立てが日銀から出てくるかどうか、明るい見通しは持ちにくい。他方、日銀が緊急会合を開催するほどの事態となれば、政府による円売りの為替介入、更には、秋口に予定される第2次補正予算の大型化なども検討されることになるだろう。
「EUの一員としての英国」を失う痛手と企業業績
最後に、より大きな視点からブレクジットが日本経済に与える影響に触れておこう。田中素香・東北大学名誉教授は、「EUの中で独自路線を歩んできた英国の存在は、日本にとってポジティブなことであった」とし、①欧州統合を前のめりに進めようとする動きに対し、英国の冷静な態度が程よいブレーキ役を果たしたこと、②EUとの貿易摩擦に苦労してきた日本にとって、英国は、保護主義色の強いフランス、イタリア、ベルギーなどを抑え、自由貿易主義の政策理念を貫いてくれる心強い存在であったこと、③英語圏のメリットを最大限生かしてGateway to Europe(欧州への玄関口)の役割を果たし、日本企業の多くが欧州でのビジネス拠点を置いたこと、の3点を挙げている。
英国では1000社を超える日本企業が事業展開しており、直接投資額は年間平均1兆円(過去5年、フローベース)を超える。「EUの一員としての英国」を失うことで、海外事業展開の前提が大きく崩れ、日本企業は経営戦略の見直しを迫られる。
英国経済が世界の国内総生産(GDP)に占める割合は購買力平価(PPP)ベースで約3%と、その規模は決して大きくない。そのため、一般論として見た離脱の影響は、貿易などをチャネルとする実体経済への直接的影響よりも、主として、金融環境とビジネス信頼感の2つの経路でより顕在化する、と見て良いだろう。
特に日本についてはそれが顕著であり、円高によってデフレ脱却が遠のき、また、欧州地域でのビジネス再構築のコストを払うことになる。高水準の企業業績はアベノミクスが誇る成果の1つであり、また多くの波及効果が期待できる強みであるが、この2つの経路によって、マクロでみた日本の企業業績は確実に圧迫される。ブレクジットによって、数少ない強みを失うことは、今の日本=アベノミクスにとって大きな痛手となるだろう。
(注:2016年6月24日日本時間午後1時までの情報に基づき執筆されたものです)
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