実際、彼の試みは、どれも合理的な計算に裏打ちされている。例えば、運転手の賃金体系。MKでは、運転手にコスト意識を徹底させるため、車の減価償却費や森英恵がデザインした制服代などの経費を運転手の負担としている。運賃収入から経費を差し引いて残った利益の83%を運転手が、17%を会社が受け取るのだ。一方、ほかのタクシー会社では通常、運賃収入の一定の割合を会社に差し引かれ、残りを運転手が受け取る。

 運賃収入の多寡にかかわらず、一定額の経費を徴収するMKのやり方に対しては、会社側に一方的に都合がいい仕組みだと批判する同業他社もいる。MKで2年間運転手をして、いまは京都市内の別のタクシー会社で働くある運転手は言う。「たしかにMKでは頑張ればそれに見合う収入を得られますが、私にはきつすぎました」。

 しかし、一定額を会社に支払えば、残りの83%が運転手の収入となるMKの賃金体系は、やる気のある運転手にとっては他社以上の収入を得られる仕組みでもある。いわば「やれば報われる」合理的な仕掛けで運転手を頑張らせ、運賃の値下げ分を上回る売上高を上げようと考えたのだ。

 青木は質素な暮らしぶりでも知られる。3人の息子が高価な自家用車を持つのを許さず、MKタクシーの“お下がり”を使わせていたこともあった。質素、勤勉を愛する青木らしい挿話だが、背後には合理的な計算もある。「京都の人たちは閉鎖的ですが、質素、勤勉を貴ぶ風土があります。私がそれを実践しておれば、彼らはMKを受け入れてくれるのです」。

 この言葉通り、挨拶の徹底や運賃値下げ運動などの試みは、次第に京都の人々に受け入れられていく。青木のもとには、市民からの励ましの便りが数多く届けられるようになったという。

 それにつれて、青木の心境には、ある変化がみられるようになった。「素晴らしい商売をすれば、お客である日本人に喜ばれ尊敬される。そうなれば、私の同胞である韓国人も日本人から尊敬される」と思うようになったのだ。43年、15歳で韓国から日本に渡ってきた青木にとって、タクシー事業は韓国人としてのプライドを賭けた戦いとなっていったのである。

母親から経営者の本質を学ぶ

 青木は28年、朝鮮半島の南に位置する慶尚南道の南海道に6人兄弟の3男として生まれた。生家は雑貨店だったが、青木が幼いころに倒産し、以後は母親が小さな旅館を建て、6人を養った。

 青木によれば、経営者としての大事なことはこの母親から学んだという。例えば、客の都合で宿泊が取りやめになり食事が余っても、母親はほんの1口も食べさせてくれなかった。次に来る客のために保存したのだ。青木がご馳走にありつけたのは、腐る直前だったという。「子供のころは不満でしたが、長ずるにつれて、お袋の考えがよく分かるようになりました。それは一銭でもカネを稼げる可能性があるのなら、ひとかけらも無駄にしないという徹底した倹約、合理精神です」。

 その母親の勧めで日本に渡り、立命館大学に留学した青木は、京都市内の下宿に寄宿した。学生の面倒を見ていたのはドイツ国籍を持つその家の夫人で、彼女も青木に大きな影響を与えたという。彼女は、どんなに寒い冬の夜でも、湯たんぽ1つを家族で使い回すという具合に、いっさいの無駄、贅沢を許さない人だった。2階に寝泊まりしていた青木が夜、1階の明かりをつけたまま布団に入ると、彼女は青木がたとえ熟睡していようが叩き起こして明かりを消させた。「寝込みを襲われるのだからたまりません。これを3、4度と繰り返されると、どんな人間だって寝る前に明かりを消したかどうか確認するようになります」。この下宿での体験が街頭訓練などの徹底した社員教育につながっているのである。

 51年、授業料を払えなくなった青木は大学を中退し、ひょんなことでガソリンスタンドの経営を引き継ぎ、60年、知人に勧められてタクシー会社の経営にも乗り出すことになる。そして、そこから40年にわたる運輸省や同業他社との戦いが始まるのである。

 「生まれ変わったら、また同じことをするかですって? もう2度とごめんですわ。40年間、それこそ1日も休まず働きづめで、苦労の連続でしたからな。しんどい人生を選んでしまったなと、ほんの少し後悔しておるのです」

=文中敬称略(日経ビジネス1998年9月28日号より転載)