3月1日、米国大統領選は「スーパーチューズデー」を迎えた。共和党は、実業家ドナルド・トランプ氏が7州で勝利。テッド・クルーズ上院議員は地元テキサス州、隣接するオクラホマ州、そしてアラスカ州を制して健闘した。共和党主流派が推すマルコ・ルビオ上院議員にとっては厳しい戦いとなったが、ミネソタ州で初勝利を収め、今後に望みをつないだ。
TPP反対を唱えるトランプ氏(中央)とクルーズ氏(右)。ルビオ氏も「賛成」からの見直しを進める(写真:ロイター/アフロ )
オハイオ州知事のジョン・ケーシック氏、元神経外科医のベン・カーソン氏は見るべき成果も無く、共和党の指名獲得争いはトランプ、クルーズ、ルビオ3氏の三つどもえが続く。
民主党は、ヒラリー・クリントン前国務長官が8州で勝利を挙げ、マイノリティーを含め、幅広い支持を獲得できることを証明。バーニー・サンダース上院議員との差を広げた。
反トランプ勢力結集のタイミングを逸した共和党
クルーズ氏の健闘とルビオ氏の初勝利は、共和党の反トランプ勢力が結集する機会が先延ばしになったことを意味する。今後、突発的な事件、事故に巻き込まれない限り、トランプ氏が指名を獲得するだろう。
クルーズ氏は、自分だけがトランプ氏を止められる、として他の候補に選挙戦からの撤退を促すとともに、党内の反トランプ票の受け皿となるべくアピールしている。しかし、ルビオ氏は大票田である地元フロリダ州での勝利を信じ、選挙戦を継続する意思を表明。ケーシック氏も、地元オハイオ州の予備選の結果が出るまでは撤退しない。
現在、共和党関係者や有力支持者は、トランプ阻止のための資金を募り、批判広告を流し始めている。夏の党大会まで指名獲得争いがもつれこむ事態も想定して、投票細則を調べ上げ、対抗手段を練っているところだ。
まだ4分の3ほどの代議員票の行方は決まっておらず、反トランプ候補への集約が進む可能性も残されている。だが、今回の結果は、草の根レベルのトランプ支持の流れが止まらなかったばかりか、むしろ支持層が拡大していることの証左である。世論調査によれば、3月15日に予備選が行われるフロリダ、イリノイ、オハイオといった重要州においても、トランプ氏が優勢となっている。
共和党がこれまでに予備選、党員集会を行った州は、得票率に応じて代議員を振り分ける比例配分方式を採っていた。3月15日以降は、多くの州が、代議員の「勝者総取り」方式を採る。大票田であるフロリダ州などの帰趨が決定的な意味を持つ。
リベラル、マイノリティーも抑えるクリントン氏
クリントン氏の圧勝は、マイノリティー層、特に黒人層の強力な支持に支えられている。夫のビル・クリントン元大統領が州知事を務めたアーカンソー州、さらにアラバマ州、ジョージア州、テネシー州などでの勝利は黒人票の貢献が大きかった。クリントン氏が、当時のオバマ上院議員と党候補指名を競って、どうしても黒人票を勝ち取れなかった2008年とは大きな違いである。
サンダース氏は、地元バーモント州に加え、オクラホマ、ミネソタ、コロラド3州でも勝利を収め、7月の党大会まで予備選を戦う意向だ。ただし、リベラル色の強いマサチューセッツ州すらクリントン氏に奪われ、支持層の拡大に成功していない。
進む、「現実的な国際派」の弱体化
2016年の米大統領選は、従来は想定できなかったアウトサイダー候補の躍進が注目を浴び、彼らの過激な発言が報道の見出しを飾る。その示唆するところは米国政治における「現実的な国際派」の弱体化だ。これは、日本をはじめとする米国の同盟国にとって大きな懸念材料である。「すべての政治は地元から」という。そうした米国の「地元」事情が、すぐにでも日本に影響を与えかねない案件の一つが、環太平洋パートナーシップ協定(TPP)である。
TPPは日本、米国を含むアジア太平洋の12カ国が参加する自由貿易協定だ。昨年10月に交渉が妥結し、今年2月には署名が行われた。署名国の国内手続きが済み次第、発効する。規定により、日本と米国の批准が不可欠となっている。2017年1月に退任するオバマ大統領とすれば、約5年半を費やしてまとめ上げたTPPの批准を見届けて、政権の成果としたいはずだ。
そのためには、TPP実施法案が連邦議会にて可決される必要がある。だが上下両院を野党である共和党が押さえている。与党である民主党議員は労働組合の意向もありTPPに反対だ。製薬、金融、タバコ業界など経済界の一部までもが合意内容に異議を唱えており、批准の目途が立たない。
さる2月2日、オバマ大統領は、議会共和党のリーダーであるミッチ・マコネル上院院内総務、ポール・ライアン下院議長を招き、当面の政策課題について意見を交換した。この席で、TPP審議のタイミングについて合意することはできなかった。2月13日に亡くなったアントニン・スカリア米最高裁判事の後任指名をめぐっても、大統領と議会共和党は対立しており、TPPをめぐる政治環境は厳しくなるばかりだ。
TPP賛成では候補になれない
この環境が続けば、TPPは次期大統領と議会に委ねられることになる。TPPをめぐる候補者の発言を追っていくと、TPPを推す「現実的な国際派」であることは彼ら・彼女らにとって重荷であることがわかる。
国務長官として、オバマ政権のアジア回帰政策を主導していたクリントン氏は、TPPを在任中は評価していた。「TPPはこれからの貿易協定の基準点となる」。しかし、TPP合意が発表された直後の2015年10月、TPPは自分が求める水準に達していないとして不支持を表明。協定文が公表される前の段階で反対を表明したのは、TPP反対を掲げる労組への同調であったことは間違いない。
今年2月、クリントン氏はポートランド・プレス・ヘラルド紙に、自らの通商アジェンダを寄稿。不公正貿易の監視を強化する仕組みを整備するとともに、企業が米国へ回帰するよう図り雇用空洞化を止める、とした。さらに、世界貿易機関(WTO)が中国を市場国として認定することに反対し、日本などアジア諸国による為替操作に対して「報復関税などの措置を検討すべき」としている。TPP反対については、米国が雇用、賃金、そして安全保障上のメリットを享受できる見込みがないからだ、と改めて弁明した。
サンダース氏は、「北米自由貿易協定(NAFTA)の失敗を繰り返してはならない」としてTPP反対を言明している。バイオ医薬品の知財保護や、外資企業との紛争処理手続きといったTPPの規定を挙げ、大企業の利益に偏重した協定だと批判。TPP実施法案を議会が可決しても、自分が大統領であれば署名しないと発言している。
共和党の主要候補も同様の姿勢をとる。トランプ氏の通商政策観は、概して重商主義的で、中国、日本、メキシコ、そしてベトナムがお決まりの非難対象国だ。TPPは、公正な競争環境を保証せず、批准に値しない、と反対している。
また、為替操作を行い、労働、環境基準を守らない通商相手国に対して厳しく臨む姿勢が不可欠、と多くの民主党議員と同じ立場を取る。中国を為替操作国として認定するとともに、同国による知財侵害や、不正な輸出補助金の支出を許容しないことを自らの通商政策として掲げている。為替操作の代償として、中国からの輸入に対して高関税を課すべきだとも発言している。
2015年4月、クルーズ氏は、当時、下院歳入委員長を務めていたライアン氏と連名で、ウォール・ストリート・ジャーナル紙に寄稿。米国はアジアで進む経済統合に乗り遅れてはならないとして、TPPが重要であること、そして貿易促進権限(TPA)法案を可決するよう説いていた。しかし、6月には立場を翻し、議会指導層への不信と、貿易協定が移民流入につながる裏口になりかねないことを理由に、TPA法案への反対を表明。TPP実施法案には反対票を投じる、と発言している。
共和党右派は、医療保険制度改革を「オバマケア」と呼んだように、TPPを「オバマ・トレード」と呼ぶことで、共和党員が抱くオバマ大統領個人への反感を掻き立てている。クルーズ氏はその流れに乗った形だ。
加えて、ルビオ氏までもが今や態度を変えている。同氏はかつてTPPはアジア経済を自由市場の価値観の下で発展させるための有効な協定だと寄稿していた。現在は協定内容を精査中としており、5月までは協定への賛否を明らかにしない予定である。
TPP合意の修正か
米大統領選はまだ予備選の段階であり、緻密な政策論争は期待できない。特に通商について候補者は、現実的な国際派であることよりも、通商相手国を叩き、大企業や経営者を叩いて喝采を浴びることにメリットを見出す。2015年にシカゴ・グローバル問題評議会が行った世論調査によれば、米国民の8割が自由貿易の重要性を認識し、TPP支持が6割強を占めている。「政治の季節」が終われば、極端な主張も現実的な路線に落ち着くとの見立ても可能だ。
しかし、非現実的な言説が、非現実的な期待を生み、現実の政策執行を難しくすることがあるのは、TPP交渉中のホワイトハウスと議会との間の緊張関係を見ても明らかである。米国自動車業界は、各国による通貨安誘導は不当な輸出補助に相当するとして、TPPに為替操作規制を盛り込むべく、強力なロビー活動を展開した。自由貿易協定にはそぐわないこの規制を他国に押し付けることで交渉が停滞することを米通商代表部(USTR)は恐れた。この件は最後まで交渉担当者の手を縛った。
TPP反対が超党派の合意となっている現状は、TPP合意の廃棄、あるいは交渉のやり直しという非現実的な結果への期待を過度に煽ることになる。その結果、米国のTPP批准が次期政権の手に委ねられるとき、米国政府が何らかの形で修正交渉を関係各国に持ちかける可能性がある。
日本としては、あるべき経済秩序と日本の経済外交という、より広い文脈にTPPを改めて位置づけておくことが必要だ。米国政治の「地元」事情への配慮も不可欠ではあるが、これまで日米が推進してきたことの意義を損ねるような形となってしまえば、本末転倒である。TPPの経済的、政治的大義を見失わないよう、米国新政権に粘り強く説くことは日本の大切な役割である。
東京大学文学部卒業。航空会社勤務の後、ニューヨーク大学にて政治学修士号取得。日本政策投資銀行ワシントン事務所、経済同友会を経て2011年より現職。
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