今回のトランプ氏の演説を「軌道修正」と捉えて、その背景として、スティーブン・バノン前首席戦略官との関係が切れたこと指摘する報道もある。もちろん国際社会への関与を嫌うバノン氏が政権を去ったことの影響がないとは言えないが、トランプ氏自身の「TPPはひどい合意だ」とする思い込みは根深いものがある。
トランプ氏の岩盤支持基盤は、あくまでも中西部を中心とする労働者層だ。TPPに対して「雇用を奪う象徴」のように受け止めている人たちである。中間選挙に向けて、支持層を固めようとしている中、TPPからの撤廃という選挙公約を守って大統領令まで署名した方針を転換することは当面考えにくいだろう。
また、米国政府の現状を見ると、北米自由貿易協定(NAFTA)の見直し交渉もカナダ、メキシコの反発で暗礁に乗り上げている。米韓自由貿易協定(FTA)の見直し交渉も始まったが、本格化はこれからだ。さらに、中間選挙に向けて、中国との関係でも貿易面で強硬姿勢を取らざるを得ず、一方的な制裁を次々と発動して貿易摩擦を起こすことは避けられない。日本との関係でも、日米経済対話での成果を出すことが必要だ。
これだけ戦線が拡大した中で、通商交渉を担当する米国通商代表部(USTR)に人的余力がないことは明らかだ。本気でTPPの再交渉ができる体制ではまるでない。
こうして見てくると、トランプ氏流の嗅覚で、あくまで駆け引き、戦術として、ダボス会議という効果的な舞台を最大限使って、揺さぶってきたと見た方がよさそうだ。
TPPの再交渉を喜ぶのは中国だ
クセ玉を投げられたのに、単純に期待を抱いて喜んでいてはいけない。大事なことはトランプ氏の言葉に振り回されないことだ。
もちろん米国のTPPへの参加が最終目標ではあるが、まずTPP11を予定通り3月に署名して固めることが先決である。豪州のターンブル首相も「米国がすぐにTPPに参加するとは期待していない」と発言したようだが、当然だ。米国市場の餌に目がくらんで、「揺さぶり」に動揺する参加国が出ないように警戒すべきだろう。
多国間交渉の合意は、各国の複雑に絡み合った利害を長い時間をかけた激しい交渉を経て調整して、微妙なバランスで成り立っている。いわば「ガラス細工」のようなものだ。トランプ氏がイメージするような、単純なビジネスの相対取引とはわけが違う。一旦再交渉でパンドラの箱を開けると、際限ない交渉で収拾がつかず、漂流するのがオチだ。
この関連で、米国に伝えるべきことがある。
TPP11には「凍結」で合意した項目がある。著作権の保護期間を70年にするといった項目である。これらはかつて、米国が交渉に参加していたからこそ各国が米国の要求を呑んで譲歩した項目で、米国の離脱に伴って、将来米国がTPPに復帰するまでは凍結することにしたものである。米国が仮に再交渉でTPP以上の要求を持ち出せば、それらの凍結項目が「解凍」されないリスクも米国は覚悟すべきだろう。それが交渉というものだ。
いずれにしてもこういう混乱した事態になれば、喜ぶのは中国であることを忘れてはならない。
今、グローバルに直面している最大の課題は、台頭する中国が国家主導の経済モデルで世界の経済秩序にチャレンジしていることである。これは日米欧が協力して取り組むべき共通の課題だ。TPPには電子商取引のルールや国有企業への規律など、「仮想中国」を念頭に置いたルールも盛り込まれている(2017年11月14日付「TPP11は『仮想中国』との交渉だった」)。そこにTPPの本質的な戦略的意味があることを忘れてはならない。早急に国際ルールのベースとなるよう固めることが最優先だろう。米国にはその本質を理解してもらった上で、参加することを促したい。アジアの国々はもちろんのこと、将来的には欧州の参加も視野に入れるべきだろう。
今は、中国の台頭によってこれまでの経済秩序が大きく変革する大移行期だ。
米国の大統領たる者には、グローバルな経済秩序の将来像に思いを致した、深い戦略論を期待したいものだ。そうではなく、ビジネス取引のような次元の発想で、「揺さぶり」「駆け引き」戦術をとること自体、嘆かわしい事ではある。しかしそれが悲しい現実だ。
なお、トランプ氏は英国のテレビインタビューで、米国が離脱した世界の温暖化対策の枠組み「パリ協定」についても、「パリ協定に復帰しろと言うなら、それはまったく異なった取り決めでなければならないだろう」と、TPPと同様の発言をしている。日本の政府や産業界には、こうした揺さぶりに左右されず、冷静な判断をしてもらいたい。
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