「私は政治家向きではない」と漏らした過去

 「私は政治家向きではない」蔡英文は周囲にこう漏らしたことがあるという。かつての彼女は台湾語で言うところの「口才」(トークのうまさ)もないし、情に訴えるようなことを言う性格でもなかった。

 彼女の経歴を見てもそれは明らかだ。実業家の父のもと、裕福な家庭の上に生まれた。11人兄弟のうち「誰も法律を学んでいないから」と父に勧められ、台湾大学で法律を学ぶ。その後米国コーネル大学で修士、英国ロンドン大政経学院で法学博士を取得、29歳の時に台湾に戻り、大学教授の職に就く。「私は父の期待通りの人生を歩んでいたわ」。メディアの取材に対し、蔡英文はこう答えている。

 「象牙の塔」にいた彼女がなぜ政治家になったのだろうか。

 転機は李登輝政権下の1990年代だった。大学教授の職をこなしながら、台湾政府経済部の顧問として貿易交渉のテーブルに着いた。当時台湾は、米国から輸入される農作物や肉類などの関税を引き下げることによって受ける台湾域内の産業のダメージを最小限に抑えるべく、米国との間で交渉を続けていた。蔡英文はこの時、最初は通訳などを務めていたが、その才能を見込まれ一気に国際経済組織首席法律顧問へと上り詰めた。彼女の活躍に、当時総統だった李登輝も一目置いていたという。

 貿易交渉での経験は、彼女にとって、台湾が置かれている国際的な状況を深く知る機会になったと言われている。その後、経済部貿易調査委員会委員、対中関係を管轄する行政院大陸委員会委員などを務めた。1999年に李登輝が発表した中台関係の新定義、二国論(特殊な国と国との関係)の起草にも大きく関わったと言われている。

 この経歴が買われ、民進党が政権を取った2000年、当時の陳水扁総統のもとで大陸委員会主任委員(閣僚)に抜擢された。彼女はここで初めて「政治」というものを経験することになる。立法院(日本の国会に相当)の委員会答弁の場に初めて出ることになるわけだが、民進党の一挙一動に揚げ足を取り、批判してくる国民党議員の猛攻撃に最初は顔を固くして、何も答えることができなかった。

 当時、初めて政権を取った民進党はそのブレーンにと多くの学者や専門家を起用していたが、彼らの多くは論理や平静さをとはかけ離れた台湾立法院の壮絶な論戦、批判の応酬に耐え切れず、立法院を去っていた。しかし蔡英文はそこで多くを学び、論戦に耐えられるだけの話術と度胸を身につけたのだった。この経験は、政治家になった後も彼女を支え続けている。

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