1986年5月21日。アイルランド・ダブリン郊外にある貴族の館でフェルメールの傑作を含む18点の絵画が盗まれた
1986年は、スペースシャトルチャレンジャー号の爆発事故とチェルノブイリ原発の事故が起きた年だ。この二つの大事故に隠れがちだが、同じ年にアイルランドでは、20世紀最大級の名画盗難事件が起きていた。30億円以上の価値がある、絵画のコレクションが盗まれたのだ。その中には、寡作で知られ、日本でも人気でフェルメールの作品が含まれている。
闇将軍「政府と警察に恥を」
盗んだのは、アイルランドのギャングの親玉、マーティン・カーヒルだ。
スラム街に生まれ、アイルランドがイギリス統治下にある北アイルランドの分離独立を求め、IRAの活動が過激化する中で育ったカーヒルは、反社会的犯罪を重ねて闇社会のトップに君臨するようになっていた。部下をこき使い、ありとあらゆる犯罪に手を染めていたことから、ついたあだ名はジェネラル、つまり将軍。
その将軍が自ら部下を率いて5月21日未明の暗闇に身を潜め、フェルメールの作品を個人所有する貴族の家を襲い、警報装置すら騙して狙ったものを手に入れて、まんまと逃げおおせた。
オランダの巨匠フェルメールの絵画が飾られていた部屋
ただ、強盗、脅迫、殺人と、なんでもしてきたカーヒルだが、絵画泥棒に手を出したのはこのときが初めてだ。将軍をその気にさせたのは、あるニュース。フェルメールの作品を個人所有していた貴族が、先々のことを考え、私的絵画コレクションを国に寄贈することを決め、そう発表していたからだ。
カーヒルは、国の宝を盗めば、自分の敵である政府と警察に間違いなく恥をかかせられ、かつ、その世界での自分の名声を高められると踏んでいた。部下にはこう嘯いている。
「この絵画のおかげで、俺たちは有名になる」
盗難発覚後、政府は慌て警察は捜査を始める。ただ、百戦錬磨のカーヒルは、現場に決定的な証拠を残していないことに強い自信を持っていた。
そこに立ち向かうのが、ミスター・リスクの異名を取るスコットランドヤードの捜査官で、美術犯罪スペシャリスト、チャーリー・ヒルだ。
元スコットランドヤードの刑事、チャーリー・ヒル。美術専門のおとり捜査官として、名画の奪還に執念を燃やした
ミスター・リスクは自分自身をこう分析する。
「私は傲慢でクソ野郎なんだ。とても自信家で、間違っている部分もあるが、最終的には必ず任務を遂行できると確信しているんだ」
アイルランド闇社会の将軍 vs. 傲慢なクソ野郎ことミスター・リスク。その戦いの火ぶたは、将軍がそうと知る前に切って落とされていた。
フェルメールが将軍一派の手におちる半年ほど前、ミスター・リスクは盗品ダイヤ密売の噂を聞き、バイヤーに扮してのおとり捜査を遂行していた。相手は密売人ばかりで、正体がバレれば確実に命を奪われる。慎重に相手を騙し、自分を信用させる。その繰り返しで真相の究明を進めていた。
その捜査で知り合った密売人が「見てろよ、これから大事件が起きる」と予言していた。
「新聞に載るし、ニュースにもなる」
予言通りに大事件が起きると、密売人はバイヤーに扮していたミスター・リスクに電話をかけてきた。
「何があったか、分かったな。俺たちが名画を手に入れた。どうするか策を練っている」
FBIの合成写真は素晴らしかったが…
ミスター・リスクは電話の主の正体を突き止めるためにこっそりとその人物の指紋を入手した。そこから明らかになったのは、その人物はアイルランド最大の盗品マーケットを牛耳る男であること。さらに、将軍カーヒルの代理人としてロンドンなどで盗品を売りさばいてきた過去を持つことも判明した。
ミスター・リスクは、背後にいるのが誰なのかを確信した。
ミスター・リスクは名画を無事に奪還するため、一芝居打ってくれる仲間を大西洋の向こうのアメリカ連邦捜査局(FBI)に求める。アメリカの大物マフィアがその絵画を欲しがっているという噂を流し、カーヒルの動きをけしかけることにしたのだ。
1987年2月。ミスター・リスクの仲介を経て、ついにFBI捜査官が扮したアメリカマフィアがカーヒル一味と密会をすることになった。場所はアイルランドの首都ダブリンの高級ホテル。
マフィアに扮したFBI捜査官は、自分がマフィアであることを示すため、ニューヨークの有名マフィア(これはホンモノ)と一緒に写った写真を一味に見せる。その合成写真は素晴らしい出来だったが、しかし、その写真には、添えられていてはいけないものが添えられていた。それは、FBIのロゴが入ったメモ――。ミスター・リスクが入念に立てた計画はその時に水泡と化した。
しかし「私が諦める!? まさか! 人生は一度きりなんだ。早々と諦めたら、生きる意味なんてないだろう?」
7年後、アントワープ空港で
ミスター・リスクは、今度は自らアメリカ人美術商になりすまし、“裕福なアラブ人”が絵画を欲しがっているからと将軍カーヒル側に接触を始めた。すぐには反応がなかったが、カーヒル側も追い詰められていた。価値あるはずの絵画がなかなか売れず、現金に換えられずにいたからだ。その焦りは“裕福なアラブ人”という餌に飛びつかせた。
事件発生の7年以上が過ぎた1993年の9月1日。
ミスター・リスクはベルギーのアントワープ空港にいた。そこにはカーヒル側の代理人もいる。持参した小切手で代理人を安心させ、代理人の持参した絵を確認。ついに、ミスター・リスクが待ちわびた瞬間がやってきた。
「私は(潜んでいた警察官たちに)サインを出したんだ。どんなサインかは教えられません」
未だにミスター・リスクには、話せないことがある。しかし、『アナザーストーリーズ』のカメラの前でできるかぎり「今だから、話す」ことを選んだのは、事件発生から30年が経ち、スコットランドヤードを退職しているからだ。現在、ミスター・リスクは、美術専門の個人探偵として活動している。
事件現場となった館、ラスボローハウスを訪れるチャーリー・ヒル
1986年の知られざる事件を丹念に取材した『アナザーストーリーズ フェルメール盗難事件 史上最大の奪還作戦』の放送日は8月24日21時から、NHKBSプレミアムで。
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