やっと悲願の東京五輪開催が決まったと思ったら、競技場の設計がなかなか進まず、予算が足りず、工期も足りず前代未聞の突貫工事、しかも新工法での工事を強いられて、これでは開会に間に合わないのでは・・・・・・。実は、2020年だけでなく、1964年の東京五輪の前にも、同じ問題が持ち上がっていた。

丹下健三、田中角栄に直談判

 舞台は代々木競技場。独特のカーブを描く屋根は、今や街のランドスケープとしてすっかり定着した。中へ足を踏み入れると、広々としていて視界に柱がない。つまり、観客席のどこからでも競技をストレスなく見ることができる。

代々木競技場は全体が曲線で構成され、独特のシルエットを持つ
天井から降り注ぐ柔らかい光が美しい

 柱がないのは吊り屋根構造だから。あの屋根のカーブは、吊り屋根構造の象徴だ。

 代々木競技場を設計した丹下健三に正式な依頼があったのは1961年11月。東京五輪開催決定は1959年で、その時点で、水泳競技のための新施設建設は必須だったにも関わらず、用地確保の問題などで発注が遅れに遅れていた。

 丹下は4カ月間でデザインを固めて公にする。ときは1962年5月。開会まで、あと2年5か月。

設計者は20世紀の巨匠、丹下健三。彼が世界にはばたくきっかけとなった建築だった

 ここから急ピッチで工事が始まった――わけではなかった。まず最初のハードルはお金。吊り屋根構造が工事費を吊り上げ、五輪組織委員会の予算を大幅に上回ったのだ。入札を辞退するゼネコンが相次ぐことになり「予算のかかるものを設計した人物」に非難が集中するようになった。

 しかし丹下はひるまなかった。当時の大蔵大臣・田中角栄に会いに行き「足りない分は私が考えましょう」という一言を引き出す。これにより予算はアップ。今度こそ急ピッチで工事が始まった――わけではなかった。