安田講堂占拠。始まりは「無給への抗議」だった
混乱から占拠へ、自由から過激へ、そして1969年の陥落
1960年代の日本の学生運動は、1969年1月19日午後5時46分に東京大学安田講堂が陥落し、377名が逮捕者されたことで、事実上、終止符を打った。なぜ学生――東大の学生に限らない――は、安田講堂を初めとした東大内の施設に籠城していたのか。なぜ、学生による制度改革の訴えは、機動隊の突入を招く事態と化したのか。
闘争を知らない子どもたち
後の世代に生まれ育った人たちは、それをよく知らない。知らないから当時の学生に共感しにくく、むしろ、学生運動世代の人たちのことを「理屈っぽい」といった理由で毛嫌いしたり、学生運動世代の影響を受けすぎている同世代のことを「一方的に過ぎる」と感じたりもする。
アナザーストーリーズのチーフプロデューサー・久保健一もそのうちの一人だった。1991年に大学生となり入寮すると、留守の間に自室の机の上に“アジビラ”が置かれている。休み時間に講義室にいると、彼らが入ってきて教壇に立ち見解を述べ始める。
「彼らにも正義があるのかもしれないけれど、押しつけられる方はたまったものじゃない。なんなんだ、ふざけるな。そう思っていました」
彼らに直接、どういうつもりなのかと質したこともある。
一方で、漠然と知っていたつもりのあの時代を理解したいという思いもあった。今回、アナザーストーリーズで籠城していた学生、事態を収拾したい大学、強制排除に乗り出した機動隊、それぞれに、「誰が悪いのか」ではなく「自分たちは何をしようとしていたのか」を聞いたことで「どの立場の言い分もわかる」と思うようになった。そして、共感できなかった学生に対しても「普通の学生だった」と見方が改まった。
「けが人も出ているので、あれが正当な行いだったと簡単に言うことはできません。武力に訴えようとしたのもやり過ぎだと思います。でも、彼らの主張もわかるし、もしかすると、いい形で決着することもできたのではないかと思っています」
その安田講堂事件をざっと振り返る。
発端は、1968年1月、東大医学部の学生が、卒業後1年間無給で研修医として働かなくてはならないという制度の撤廃を求め、授業をボイコットしたことだった。しかし、大学側はそれを無視する。業を煮やした一部の学生が抗議のため、翌68年の6月15日に、総長室などが置かれていた安田講堂を占拠した。
驚いたのは大学側だ。総長は警察に通報し、構内に機動隊を引き入れて占拠する学生の排除に乗り出した。学生側は、これを大学自治を踏みにじる行為だと猛反発。6月20日の全学総決起集会を経て総長と話し合いの場を設けた。その現場も安田講堂内だ。ところが、ここでひとつボタンの掛け違いが起こる。総長が、話し合いの途中で体調不良を理由に退出してしまうのだ。
総長を待ちながら
学生は、総長が戻ってくるのを待つことにした。その結果、「自然に占拠しちゃったんだよね」(当時の学生)。
学生は退出した総長の帰りを待っていた。ただ、待つだけではなかった。医学部外の学生とも結託して、東大闘争全学共闘会議=東大全共闘を組織し、大学へ謝罪を求めるなどしながら、安田講堂の中でジャズコンサートをしたり演劇を上演したりと、自由に過ごしていた。
8月10日、大学側から告示文が通達された。そこには、今後警察の介入はできるだけ避けるので、正常な生活に戻って欲しい旨が書かれていた。
これもまた、ボタンの掛け違い。学生が求めていたのは一方的な告示ではなく、まずは話し合いだったからだ。
「何を言ってるの、(大学は)謝ればいいじゃんっていうくらいの話なんだけど、謝れないわけね」(当時の学生)
学生の行動が過激になるのはこの頃からだ。頭にヘルメット、手にゲバ棒。武力で事態の打開を図ろうとするグループが台頭し、学内の校舎は次々にバリケード封鎖され、東大は機能停止に陥る。それが学生をますます、引くに引けない状況へと追い込んでいくことになる。東大が変われば、他の大学も変わる。そういった期待を抱いた学生が東大に集まり、事態は解決に向かうどころか、硬直化していくのだ。
問題が長期化すると、別の問題が生まれた。入試だ。このままでは、69年の大学入試ができない。
入試、通り過ぎてゆく
大学側は、なんとか入試は行いたい。そこでこう考えた。入試が中止になる可能性があることが明るみに出ると、世間が黙ってはいないだろう。学生もショックを受けるはずだ。
世間は確かに学生を非難し始めた。しかし、ここでもボタンの掛け違いが起こる。学生は、一層かたくなになってしまったのだ。
「入試をやめれば東大は守れない。という風に言われればね。いや守るためにやっているのではなくてね、改革をするためにやってんだってことになっちゃうからね」(元学生)
大学は68年12月29日、文部省から最後通告を受ける。「入試を行うには、1月15日までに封鎖を解除せよ」。しかし、学生は年末年始も立てこもりを続け、話し合っても事態が改善しない。
大学は最後の手段に出る。一度はしないと学生に伝えた機動隊導入要請を行ったのだ。それが、安田講堂事件の直接的なきっかけとなった。安田講堂は明け渡される。
安田講堂事件解決のため、機動隊導入を決意した、 東京大学執行部の会談の記録
しかしよく知られているように、結局その年、東大の入試は行われなかった。
封鎖解除は達成したのに、なぜ入試ができなかった。そもそも大学はなぜ、入試にこだわったのかは7月13日水曜21時から、BSプレミアムで。
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