映画『エマニエル夫人』のポスターは日本オリジナル。主演シルビア・クリステルの写真使用料は100万円。映画の買い付け額とほぼ同額を投じた一人の映画宣伝マン「一世一代の賭け」の行方は…
グーグルの検索窓に「籐いす」と入力すると「籐椅子 回転」「ニトリ 籐椅子」などと並んで、「エマニエル夫人 籐椅子」という変換候補が表示される。映画『エマニエル夫人』が公開されてから40年以上が経っても、籐椅子に座るエマニエル夫人の姿は、多くの人の心に焼き付いているのだ。
続編が公開された当時は小学生で愛知県刈谷市に住んでいた、NHK BS「アナザーストーリーズ」プロデューサーの河瀬大作も、そのポスターを目がけて自転車を走らせた。
「『すごいのがあるよ!』という友達と一緒に、『エマニエル夫人』を上映していた映画館まで、30分くらいかけて見に行きました。その映画館に着く前から、町のあちこちにその写真を使った立て看板があるんですね。見て『すごい!』となるのですが、自転車を止めて正視することは、気恥ずかしいし大人に怒られそうで、できない。『うわあ~~』と思いながら、横目で見て通り過ぎていました」
「男性には売らない。女性に売るんだ」
『エマニエル夫人』は地下出版された小説を原作としたフランス映画。日本へは日本ヘラルドによってもたらされた。フランスでの公開前にそれを見た日本ヘラルドの社員・井関惺は「正直物足りなかった」。しかし井関の先輩である山下健一郎には別の考えがあった。
「これはいける。これは女性に売るんだ」と考えた。
日本で封切られたのは1974年12月下旬。長嶋茂雄が現役引退を表明し、田中角栄内閣が総辞職をした直後だ。この頃を少し振り返ると、1972年2月に浅間山荘事件が起き、同年7月に田中角栄内閣が発足している。翌1973年にはブルース・リーが死に、読売ジャイアンツがV9を達成した。
「今から振り返ると、1974年は、高度成長が落ち着き、一つの時代が終わった年だったように思います。その中で、女性は社会に出て、当たり前に人生を楽しもうとし始めていたのではないでしょうか」(河瀬)
日本ヘラルドの映画宣伝マン、山下健一郎は『エマニエル夫人』を「男性には売らない。女性に売るんだ」と決めた
山下は、そういった変化を感じ、この映画を女性に見てもらおうと考えた。だから場所もポルノ映画館ではなく、流行の映画を掛けることで知られていた東京・日比谷のみゆき座を選んだ。
さらに、写真に100万円を支払った。
上映権100万円、ポスター写真100万円
フランスでの『エマニエル夫人』の映画のポスターは、リンゴとヘビをモチーフにしたもので、主演のシルビア・クリステルの顔も胸も露出していない。
しかし山下は、雑誌の記事用に撮影された、白いレースを身にまとった彼女が籐椅子に腰掛け脚を組み、パールのネックレスをつまみ上げて口元に寄せ、こちらをじっと見つめている写真を、ポスターに使うことに決めた。その使用料100万円は、相場の5万~10万円から比べると破格の高値。『エマニエル夫人』の上映権も100万円だったのだから、どれだけその支出が“博打”だったかがよく分かる。
山下の妻が「競馬狂だった」と評する、しかしなかなか勝てなかった山下は「二度とはない、一世一代の賭け」に出た。
公開初日、みゆき座には、キャパシティの倍近くの1500人が押し寄せた。その7割以上が、あの写真に魅せられた女性。『エマニエル夫人』は、世界で3億人が見たヒット映画となったが、ここまで女性の比率が高いのは日本だけ。後にテレビで放送されたときには、視聴率が30%を超えた。
1974年12月、『エマニエル夫人』が上映されたのは、東京・日比谷のみゆき座。定員の倍近い1500人が押し寄せ、その7割以上が女性。「女性に売る」。山下の賭けは当たった。いや、彼の眼は時代を確かに捉えていた
今回、アナザーストーリーズで『映画“エマニエル夫人”官能か?ワイセツか?』のディレクターを務めたのは、制作会社スローハンド所属の久保田暁。ディレクター4年目の20代の女性だ。
「彼女は、当時の過熱ぶりを知りません。だからこそ、フラットな視点で取材し、番組を作れたのではないかと思います。その視点があるから、今、この番組でエマニエル夫人を取り上げる意義が大きくなったと思っています」(河瀬)
オランダでは、シルビア・クリステルの最後の恋人にインタビューをし、彼女が最後に描いた、籐椅子に腰掛ける自画像を見せてもらったただけでなく、映画雑誌『カイエ・デュ・シネマ』へも取材を試みた。ところが、「マドモアゼル、あなたは叩くドアを間違えています」と門前払いをくらった。
籐椅子に座る女たち
「あの頃のフランス映画は難解なのが当たり前で、セックスシーンがある映画にしても『ラストタンゴ・イン・パリ』のようなアート映画でなければ認めない空気があった。由緒ある映画雑誌にとってエマニエル夫人は今でも『評価に値しない』ということなのでしょう。
でも映画は初めてというCM出身のスタッフが集まって作ったこの映画は、ストーリー性よりも美しさを追い求め、猥褻ではなく官能的に、全編パステルカラーで欲望を印象的に描いた。その年のフランス国内の興行成績1位という結果は、つまり、時代は高尚で難解な芸術作品よりも、美しく自らを解き放っていくエマニエル夫人を求めていたということではないでしょうか」(河瀬)
河瀬が「頭が柔軟」と評価する久保田は、番組の冒頭に、ポスターを目指して自転車を走らせた当時小学生の河瀬がモデルではないかと思わせるイメージシーンを、そしてエンディングにも面白い映像を用意した。みゆき座に近い銀座の歩行者天国に、籐の椅子を置いたのだ。それを見た人々の反応は…。4月20日水曜日21時から、BSプレミアムでご確認を。27日はファーストシーズンで放送した『タイタニック号』を再放送する。
(文中敬称略)
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