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 筆者は以前新聞記者を務めたことのある身だからか、記事を読むこと以外の用途で紙の新聞が役立っている場面に遭遇して、思わずほくそ笑むことがある。天ぷらなどの揚げ物置き、猫のトイレ、割れ物を箱に入れて送るときの詰め物など、けっこう世の中に貢献しているじゃないかと思うのである。

 逆説的と思われるかもしれないが、実はこれは従来の紙の新聞の本質でもある。電子新聞ではなしえない物質的な役割を果たしているからだ。東京ステーションギャラリーで「吉村芳生」展が開かれると聞いてまず期待したのは、今言ったような意味での新聞紙をテーマにした作品との再会だった。

「吉村芳生 超絶技巧を超えて」展 会場風景(東京ステーションギャラリー) ©Hayato Wakabayashi

 初めて吉村芳生(1950~2013年)の作品を見たのは、2007年に東京・六本木の森美術館で開かれた「六本木クロッシング 未来への脈動」というグループ展だった。その一角では、新聞紙に見えるような何かがたくさん壁に貼られていた。もちろん美術館の展示だから、普通の新聞がただ貼られているわけではなく、それらは作品なのだろうとも思った。

 近づいてよく見ると、鉛筆で書き写された「新聞紙」だった。驚いた。模写の精度が高いことだけに対してではない。技術のあるなしにかかわらず、1枚分を写すだけでも尋常ではない根気強さが必要だろう。なぜそんなことをしているのか、それも何枚も何枚も。その気の遠くなるような作業を続ける画家の姿を思わず想像してしまったのだ。そしてそこには、単なる模写とは違う何かが存在していた。

 美術作品の模写なら、たいていの場合はオリジナルの方が優れている。吉村の場合はどうだろうか。新聞にもレイアウトや掲載写真などクリエイティブな要素はある。だが、吉村の主たる意図がその再現にあるとは思えなかった。作品の前に立つと、修行僧のようにひたすら紙に向き合っている姿が目に浮かぶ。そのこと自体が、見ている自分の想像力を強く呼び起こしていることに気づいた。