赤を効果的に使った血生臭い絵

 その後、芳年をさらに印象づけたのは、『郵便報知新聞』という一枚ものの紙媒体だった(この展覧会にも数点出品されている)。「新聞」を名乗ってはいるものの、ゴシップネタを大きく派手な挿絵で引きつけ、短い記事を読ませる構成だった。今でいう写真週刊誌のような存在と考えればいいだろう。芳年はこの媒体でかなりたくさんの絵を担当した。ちまたの殺人事件などが興味本位で取り上げられており、赤を効果的に使った血生臭い絵もあった。スキャンダラスな絵を描く画家という認識が、筆者の心の中で助長された。

 さて、ここで「反省」をする。江戸時代の錦絵や上記の『郵便報知新聞』は、美術品ではなく出版物として制作されていた。絵師とは別に版元、つまり出版者がいたということだ。出版物であれば、例えば書籍の挿絵などの場合には、画家やイラストレーターは編集者の統括のもとで内容に合った絵を描くことになる。

 当時の美術界の状況ということでいえば、幕末以降、西洋から鮮やかな赤の絵の具が安く手に入るようになっていたことも加えて考える必要がある。赤は衝撃的な色である。浮世絵師や版元は、効果を見越して使ったはずだ。芳年が"血みどろ絵"を描いた事情の一端はここにもありそうだ。この展覧会の会場を回ると、赤が使われているのは"血みどろ絵"に限らないことに気づく。

 そんな認識の上で、改めてこの展覧会を見渡してみた。芳年は、武者絵などの活劇的な描写に長けた歌川国芳の弟子。《義経記五條橋之図》をはじめ、師匠譲りのダイナミックな武者絵が多いのは、生涯を通じた特徴だ。構図の取り方や動的の場面の表現力が実に見事。舌切雀で欲張りな老婆が選んだつづらからたくさんの妖怪が出てきた瞬間を描いた《新形三十六怪撰 おもゐつつら》では、画面いっぱいを使った構図、妖怪たちのヴァリエーションや老婆の驚き方にうなる。しかもユーモラス。芳年の想像力と創造力の広さ・深さが分かる。

月岡芳年《新形三十六怪撰 おもゐつつら》(明治25年[1892年])<br />最晩年の錦絵。ユーモラスで楽しい1枚
月岡芳年《新形三十六怪撰 おもゐつつら》(明治25年[1892年])
最晩年の錦絵。ユーモラスで楽しい1枚

次ページ 動的な場面のこれぞという一瞬を再現