セザンヌの目を通して山を見る

 少し前に、「セザンヌと過ごした時間」と言う映画を試写会で見た。フランス19世紀後半の美術史に大きな足跡を残した画家ポール・セザンヌの生涯を、文豪エミール・ゾラとの交友を核に据えて描いた作品だ。画家を主人公にした作品だけあって、映像も「絵」を意識した美しさを志向していた。中でも特に興味深く感じたのは、映画に出てきた山の風景が、セザンヌが描いた油彩画のように見えたことである。

南仏のサント=ヴィクトワール山を望むワンシーン(「セザンヌと過ごした時間」より © 2016 - G FILMS -PATHE - ORANGE STUDIO - FRANCE 2 CINEMA - UMEDIA - ALTER FILMS)

 美しい景色を「絵のような」という言葉で修飾することがしばしばある。その際には、抽象画ではなく比較的写実性の高い絵画を思い浮かべることがほとんどなのではないかと思う。一方、セザンヌは「近代絵画の父」と言われる作家だ。風景は主要なテーマの一つだったが、セザンヌの場合は目に写る光景を画面で再現するようないわゆる“写実”からは離れる傾向があった。セザンヌは、絵画が抽象に向かうきっかけを美術の長大な歴史の中で作った極めてエポックメイキングな画家だったのだ。

 セザンヌは「自然を円錐、球、円筒で捉えて描く」ことを知人の画家宛の手紙に書き残したことで知られている。欧州の美術館を訪ねてかなりの頻度で出合うセザンヌの作品の中には抽象画と見紛うような風景画もあり、とりわけ鮮烈な息吹きを感じたことがある。表現の中に時代を先取りした進取の気性を感じ取ることができたからだろう。

 さて、映画「セザンヌと過ごした時間」の中で油彩画のように見えた風景というのは、セザンヌが後半生で数十点を描いたという南仏のサント=ヴィクトワール山。妥協を許さない革新的な画風がパリでは認められず、1880年代以降、セザンヌは故郷のエクス=アン=プロヴァンスでこの山を描き続ける。画風の個性を強固なものにした連作と位置づけてもいいだろう。日本ではブリヂストン美術館が所蔵している作品が有名だ。

 風景画として外形などははっきりしており、山であることを見紛うことはない。だが、特に晩年の作品では刷毛の跡を組み合わせたような筆触が独特で、たとえば山肌の一部のみを見ていると具象的な再現性よりも“セザンヌの質感”のほうが主張が強い。写実性から離れつつあるセザンヌの特色がよく分かるのである。

幾何学的な趣を持つ山の形

 にもかかわらず、映画に出てきた実際の風景が絵のように感じられたことは、自分の脳の動きを客観的に分析する楽しみを与えてくれた。サント=ヴィクトワール山はそもそも岩が多く露出した独特の風貌を持つ山である。幾何学性を意識して絵を描いていたセザンヌは、幾何学的な趣を持つ山の形に魅了され、テーマにし続けたのかもしれない。しかしそれだけでは、映画に映った実景の山が絵のように見えた理由の説明はつかない。セザンヌの特色は外形よりも山肌の描き方に表れているからだ。

 おそらくは、セザンヌの筆触の魅力が、映画に映った実景の見方を支配したのが最大の理由だったのではないか。実物や画集で見たセザンヌの筆触が刷り込まれた筆者の脳は、実写の山にも同じ魅力を感じたいと自然に志向した。その結果、錯覚が起こった。いや錯覚と言うべきではないかもしれない。セザンヌの目を通して実際の風景を見る経験をしたと考えてもいい。

 すぐれた芸術家の感覚が鋭敏であることに異論を唱える人はいないだろう。特に意識しなければ見過ごしてしまいそうな何気ない風景にも彼らはさまざまな感慨を持ち、美を抽出し、作品の中に表現として取り込むのである。映像にしろ実景にしろ、セザンヌの目でその風景を見られるというのは、なかなか貴重な経験なのではないかと思う。

 実は、この映画の中では、セザンヌの絵のどこがどう優れているかといったことの説明はほとんどなかったと記憶している。それでもセザンヌの絵の真価を楽しめるところが興味深い。

映画情報:「セザンヌと過ごした時間」 2017年9月2日以降、Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷)ほか全国で順次公開

監督:ダニエル・トンプソン
出演:ギョーム・カネ、ギョーム・ガリエンヌ、アリス・ポル、デボラ・フランソワ、サビーヌ・アゼマほか

原題:Cézanne et moi/英題:Cezanne and I/2016年/フランス/仏語/スコープ/114分 配給:セテラ・インターナショナル