新聞はピカソにとって美術作品の素材でもあった

 まず、作品の中から新聞記事が発見されたこと自体が興味深い。新聞や雑誌等のコラージュによって美術作品を制作する例が出てくるのは概ね20世紀以降の傾向。ピカソは1910年代前半に新聞紙を用いたコラージュ作品の制作を手がけており、朋友だった画家ジョルジュ・ブラックとともにこの分野の先駆者とされている。

 《海辺の母子像》の制作よりも時期は10年ほどくだるものの、新聞はピカソにとって美術作品の素材でもあった。つまり、通常は読者のための情報源である新聞に、ピカソは物として接している側面があったわけだ。

 また、今回の発見はフランスの新聞だった。記事の日付として明らかになった1902年1月はちょうど、バルセロナからパリに出てきたピカソがバルセロナに戻った時期に当たるという。《海辺の母子像》はバルセロナで描いた作品とされており、その下層にフランスの新聞が特定できたことが何かを示唆するのは必定である。

 今井氏によると、「当時のピカソは絵が売れることがめったになくて貧窮の中を過ごしており、絵を一度描いたカンヴァスを再利用して別の絵を描くことが多い時期だった」という。これらの事実は、ピカソがパリからバルセロナにカンヴァスを運んだ可能性を示唆する。

 もう一つ、さらに重要なトピックスがある。発見された文字が左右反転した状態だったことだ。新聞は通常両面印刷なので、新聞紙が2つの絵画の層の間に挟まっていたとしたら、反転していないものを含めて両面の文字が浮かび上がるのが自然である。また、そもそも紙というものは鉱物を含んでいないので、今回の検査では存在が特定できていないはずだ。

 この件については、同館の木島俊介館長が記者会見の席上で最後の質疑応答の時間に大変興味深い、もう一つの推測を披露した。「ピカソがカンヴァスを複数持ってパリからバルセロナに帰る際に、新聞紙を間に挟んでカンヴァス同士が接するのを防いでいたのではないか」というのである。

別の肖像画に埋め込まれた新聞の日付との違いはわずか9日

 現代人にとっても新聞紙は読んだら捨てるのが普通で、気軽に廃物利用されることもある。既存の絵の上に別の絵を描くのが目的で利用されたのなら、描き始める前におそらく新聞紙を剥がすのではないか。その際に、もともと描かれていた絵画に接していた紙面のインクだけが付着して残ったと考えるのはなかなか合理的だ。片面の記事だけが反転して残ったことに対して、うまく説明がつく。少なくとも現在の情報から考えると、木島館長の推測にはなかなか説得力がある。

 なお、新聞紙が埋め込まれた作品は、ピカソの同時期の作の中にもう一点確認されているそうだ。《マテウ・フェルナンデス・デ・ソトの肖像》という肖像画で、これまでの研究では1901年作とされている。この作品についてはポーラ美術館が高精細画像を取り寄せて調査した結果、人物の額の辺りにやはり反転して見える活字の存在を確認したという。こちらについても「ガリカ」の検索で記事が特定され、何と同じ「ル・ジュルナル」紙の1902年1月9日付の紙面であることが分かったという。

 《海辺の母子像》と同様の推理を試みると、パリで描いた肖像画のカンヴァスを新聞紙で包むなどして運び、バルセロナで剥いだところ、活字のインクだけが残ったということになろうか。しかも、両者の新聞の日付はわずか9日の違いである。ピカソがパリからバルセロナに戻ったのは1月18日よりも後のことであり、その際に少なくともこの2枚を一緒に運んだ可能性もある。

 《マテウ・フェルナンデス・デ・ソトの肖像》については、新聞紙を剥いだだけで、上に新たな絵を描かなかったという想像もできる。今後の調査でより正しい史実が明らかになることを期待したい。

《海辺の母子像》の展示

◎ポーラ美術館=2018年8月中旬まで展示中

◎パリ・オルセー美術館
「ピカソ:青の時代とバラ色の時代」展=2018年9月18日〜2019年1月6日