展覧会の主催者が広報のために『「ゆきむら」ではなく「せっそん」です』というキャッチコピーをわざわざ作ったのは、そんな現状を逆手に取ったからだろう。しかし、一度その個性的な表現の魅力にはまると心の中にずっと巣食い続け、雪村の絵が見られるという話を小耳にはさめば見に行こうという気になる。雪村はそんな画家だ。

雪村《琴高仙人・群仙図》(三幅対、京都国立博物館蔵、重要文化財 東京藝術大学大学美術館での展示期間:4月25日〜5月21日、MIHO MUSEUMでの展示期間:8月1~20日[予定])

 さて、この「奇想」はいったいどこから出てきたのか、やはり気になる。雪村が禅僧だったことに目を向けると、興味深い世界が見えてくるかもしれない。雪舟、白隠、仙厓(せんがい)など、絵を描く禅宗の僧侶は意外と多い。

 そもそも絵画が、文字が読めるか読めないかにかかわらず、宗教の内容を伝えるための絶好の媒体になりうることは、仏教絵画の隆盛だけでなく、西洋絵画の歴史の基本にキリスト教絵画があることからもよく分かる。また、シンプルで枯淡の境地にもつながる水墨画は思想の表現にもつながる書とも親和性が高く、禅宗の画僧たちにとって最もしっくりくる美術ジャンルだったのではないだろうか。

 禅寺は禅僧の修行の場であっただけでなく、詩・書・画を習得するための"学校"でもあったという。いわば詩・書・画は禅僧たちの教養だったわけだ。しかも、中国から渡来した絵画などを蔵する寺もあった。一種の博物館のような役割を果たしていたということになろうか。そんな環境があったからこそ、僧侶の中から絵や書の達人たちを輩出したのである。模写は画学生の勉強になる。

 時代は下るが、たとえば伊藤若冲は京都の相国寺に小一時間ほどかけて歩いて通い、伝来していた中国絵画を模写するなどして絵画の勉強をしていたと聞く。今の茨城県に生まれた雪村は、鎌倉を訪れたことが分かっている。鎌倉には寺が多くあり、やはり中国から渡来した絵画がたくさんあったという。いつの時代でも、それまでに見たことがなかった様式の魅力的な表現を目の当たりにした画家たちは、夢中になって自分の中に取り込もうとするわけである。