絵と書が同じような掛け軸に仕立てられたり、同じ画面の中に両者が同居したり。絵と書は、日本美術の歴史の中ではとても近しい関係にある。日本語は漢字とかなを混ぜて書くためもともと文章自体が見た目の変化に富んでいることや、明治に入るまで活版印刷が普及せず、書でも筆を使って比較的自由なレイアウトで表現してきたことなどが関係しているのだろう。
根津美術館で、その興味深い例に出会った。作者は、17~18世紀に京都を中心に活動した尾形乾山。同館では「光琳と乾山」と題した企画展が開催されており、兄・尾形光琳の《燕子花図屏風》(根津美術館蔵、国宝)などと一緒に、これまであまり見る機会がなかった乾山の絵画作品が多数出品されていた。

乾山は、どちらかといえば画家としてよりも陶工として名高い作家だ。「乾山」という号も、京都に設けた窯の名前から取ったという。野口剛・根津美術館学芸課長は、「享楽的で派手な傾向の光琳に比べると地味を旨とし、文人のようなあり方を好んだ」と話す。
《八橋図》(文化庁蔵、重要文化財)で乾山は、川にかかった風雅な木橋と水中から生えて花を咲かせたカキツバタを描いた余白に、風雅な文字をしたためた。平安時代の文学作品『伊勢物語』第9段「東下り」の一場面を描いた「八橋」は、兄・光琳も手がけた画題。主人公の在原業平が京都からはるばる三河国(現在の愛知県知立市)を旅して訪れた、地名の由来となったと見られる木橋のある風景が描かれている。そして乾山のこの作品では、業平が詠んだ次の和歌が画面上部を埋めている。

唐衣(からころも)/きつつなれにし/つましあれば/はるばるきぬる/たびをしぞおもふ
都にいる妻のことを旅先で思う侘しさを詠み、「か・き・つ・ば・た」の文字を織り込んだ和歌が、宙を漂っているわけだ。ひらがなを主体とした表現は、文字をあたかも風のように存在させる。カキツバタのある美しい風情の川を映しながら、情感たっぷりに和歌を読むナレーターの声が聴こえてくる映像作品のような趣を持っていると思うのだが、いかがだろうか。
和歌はそもそも読んで字のごとく「歌」である。声に出すときにはしばしば「詠む」という言葉が当てられ、古くから、音程やリズムを伴って味わうものだったことに思いがおよぶ。たとえば現代まで受け継がれてきた「歌会始」にも様式は残っている。
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