東京・上野の国立西洋美術館で開かれている「プラド美術館展」。スペインの首都マドリードにある同館の所蔵品で構成されるこの展覧会には、17世紀のスペインを代表する画家、ベラスケスの《王太子バルタサール・カルロス騎馬像》をはじめとするたくさんの作品がお目見えしている。まずは、「芸術」という章立てがされた最初の展示室で出合った、極めて興味深い作品に注目したい。画家の姿を画面に登場させた宗教画である。

 フランシスコ・デ・スルバランという画家が17世紀に描いた《磔刑のキリストと画家》は、見れば見るほど不思議な気持ちになってくる。画家はいったい誰なのか。何をしているのか。そもそも磔刑になったキリストの真ん前にパレットを手にした画家がいたなどということがありうるのか。キリスト教に関する知識があろうがなかろうが、見ているうちに「これはやはり絵空事だな」と考えるだろう。おそらく描いているのは、画家自身の姿なのではないかとも想像をふくらませる。もしそう言い切れないとしても、自分の職業である画家そのものを描くことに、画家は何かしらの思いを込めているのではないかと。

フランシスコ・デ・スルバラン《磔刑のキリストと画家》(1650年頃 マドリード、プラド美術館蔵 © Museo Nacional del Prado)

 さらに思いをめぐらせる。絵の中の画家は、これからキリストの姿を描くはずである。そのためにわざわざパレットを手にしているのだ。描くことによって、画家は十字架上のキリストの姿を多くの人に見せることができる。少し時間が経てば消えるであろう磔刑の様子を後世に残すこともできる。描いた画家は、自分が極めて重要な仕事をしていることを自覚しているのである。

 そこに見られるのは、当時の画家の矜持である。まだテレビも映画も写真もパソコンもスマートフォンもない時代のこと。絵は極めて重要な伝達のツールだった。とはいっても、誰も神の世界やキリストの奇跡を見たことがあるわけではない。画家は世界を絵の具で「創る」役割を与えられ、また自ら担ったのである。極論に聞こえるかもしれないが、画家が2次元の世界における「造物主」だったと考えてみてはどうだろうか。さらに考えを深めると、キリスト自体、この絵の中では画家が描くことで生まれた存在という設定なのかもしれない。