せっかくだから、パロディの側から元ネタに思いを少し深く馳せてみるとどうなるか。たとえば「グリコ」の商標を改めて見直すと、えも言われぬ喜びの表情が浮き上がってくる。改めて一万円札をまじまじと眺めると、工芸品としての度合いが極めて高い紙の魔力のようなものを感じる。都知事選はしばらく先の話になるが、次の機会に貼り出されるポスターには、たいていは希望に満ちた表情をしている主たる候補者たちが「谷間」ではない険しい場所で戦っている裏の顔が見えてきそうだ。

 一方、ただ人気が高いだけでなく、積極的に遊ぶ対象にしたくなるからこそ生まれるのがパロディである。元ネタのどこかに変わったところや、目立つところ、深く楽しめるところがあるからパロディになるのである。それゆえアート作品がパロディの元ネタになることも多い。この展覧会では靉嘔による浮世絵の春画、岡本信治郎や木村直道によるゴッホの油彩画、久里洋二による岸田劉生の麗子像など多数のパロディ作品が展示されていた。

靉嘔の作品の展示風景。右はゴーギャンの《我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか》、左は渓斎英泉の浮世絵《十開之図 仏》が下敷きになっているという
岡本信治郎の作品の展示風景。ゴッホの作品が下敷きになっている

 会場入口に展示されていた《モナ・リザ》の大量のパロディは、デザイナーの山縣旭の作品。“本家”のレオナルド・ダ・ヴィンチだけでなく、フェルメールやベラスケスなどの要素が組み合わせられ、読み解く楽しさを与えてくれる。少々短絡的に言わせていただけば、こうしたものが生まれることによって、元ネタのアート作品自体もより深くより広く理解され、あるいは楽しまれるような状況が生まれているのではないかとも思う。

山縣旭(レオ・ヤマガタ)の作品の展示風景。テーマは「モナ・リザ」。デザイナーとして活動してきた山縣の初の美術館での展示とのこと。「レオ・ヤマガタ」というアーティスト名は、この展覧会に合わせてつけたという

 関連して、まさに蛇足にはなるのだが、筆者もGyoemon名で日々下手なパロディ絵画を描いているので、そのうちの一枚をここで紹介しておきたい。題して《桃女(ももむすめ)の誕生》(「パロディ、二重の声」展には出品されていません。念のため)。

《参考作品》
Gyoemon《桃女(ももむすめ)の誕生》(2014年、iPad画、「パロディ、二重の声」展には出品されていません)

 歴史上の二つの名画であるボッティチェリの《ヴィーナスの誕生》とマグリットの《大家族》のイメージを借用し、日本の桃太郎伝説と掛け合わせた内容だ。2014年に描いたときには深く考えていなかったのだが、改めて自分でこの絵を分析すると、ボッティチェリが描いたヴィーナスの恥じらい、海の上に飛び立つ鳥の影でマグリットが表した非現実感、桃太郎伝説が主張する誕生の神秘のようなもの、そしてくだものの桃が持つエロティシズムが浮かび上がってきた。自分で描いた絵なのに、「誕生」という根源的なことについて改めて考えさせられた。それもパロディだからこそだと思う。なお、「パロディ絵画は上手に描いてこそ成り立つものである」というご批判の声もあるだろう。何とぞご容赦ください。

「パロディ、二重の声 日本の一九七〇年代前後左右」展

東京ステーションギャラリー、2017年2月18日~4月16日