AI(人工知能)やメタバース(仮想空間)などを使えば、亡くなった人とデジタル上で再会できるかもしれない。技術の向上は目覚ましく、生前の本人と見分けがつかないほどその人らしく振る舞う「デジタル故人」を構築することはもはや不可能ではなくなった。
ただし、現状この技術を使ったサービスは、世の中に広く受け入れられてはいない。むしろ禁忌に足を踏み入れるような抵抗感が高まっている印象すらある。技術の壁とビジネスの壁、そして心の壁。本当の意味でデジタル故人を実現させるには何をどう乗り越えるべきなのか。連載を通して探っていきたい。
デジタルの痕跡とデジタル故人は別物
SNS(交流サイト)やメタバース(仮想空間)などのデジタルの場が追悼に適しているかと問われれば、問題なく適していると答える。そもそも追悼の本質は人の心にあるので、それを喚起する媒体は何だっていい。お墓や仏壇などの目に見えて触れられるものだっていいし、デジタルだって問題ない。誰かが追悼の場としてふさわしいと感じたら、そこはその人にとって間違いなく追悼の場だ。
ただ、追悼の場としての受け入れやすさの違いも確かにある。ひとくくりにデジタルといっても、本人が残していったデジタルの痕跡と死後に作られたデジタル故人は全くの別物で、受け入れやすさは前者が上だ。
2010年8月に白血病で亡くなった高校生のワイルズさんが残したブログ「ワイルズの闘病記」には、本人が自らの命と向き合った日々の日記が残されている。そこには死後に公開するために残したメッセージも両親の協力によって公開されており、今でも読める状態になっている。
<語ってください。「死」について、今の教育では全く理解できないまま、多くの子供が成人していってしまいます。
「死」は特別なことでも、恐れるべきことでも、辛いことでも、苦しいことでもない、ということを、教えて欲しいのです。
かつて、笑いながら自分の葬儀を指示し、遺書を書いた子供がいたことを、知って欲しいのです。>
(ワイルズの闘病記/2010年8月8日「ワイルズからの手紙」)

また、2013年に交通事故で亡くなったタレントの「桜塚やっくん」のブログは、死の2日前に投稿した近況報告で止まったままになっている。その最終投稿には今でもファンがコメントを書き込んでおり、その数は9万件を優に超えている。
自らの死後を見据えた言葉を残したブログと、死の予兆を感じさせずに止まったブログ。対照的ではあるが、どちらも本人がつづった文章が残っているという点では共通している。そこには本人の息吹が確実に残っていて、本人をしのぶ依り代(よりしろ)として十分に説得力を持っている。少なくともそう信じることに不自然さはないと思う。
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