夜9時。残業を終えて地下鉄のホームへ。大きなプレゼンの準備が始まると、あれこれやることがあって遅くなる。まだ夕食は食べていない。コンビニで何か買って帰ろう。そんなことを考えていたら、エスカレーターから見たことのある顔が降りてきた。背が高いので、目立つ。「北風上司だ」とすぐに分かった。
「よぉ、桜川、遅いな」と、いつになく上機嫌。北風上司は、「リモートなんかで、営業できるか!」という、バリバリの「むかし営業」。みんなが会社に来るのがうれしくて仕方ないのだろう。
「遅いですね」と言うと、「遅い? まだ9 時だよ。俺がおまえくらいの頃は、これからひと仕事だったよ。まあ、時代が違うからなあ。こういうこと言うなって、会社には言われるんだけどね」
冗舌だ。「北風上司、なんか元気ですね」と顔を見た。
「この忙しいのに、明日出張だよ。俺は『リモートでいい』って言ったんだけど、先方が『どうしても顔を出せ』と言うもんで、仕方なくだよ。あの会社も古いよなあ」と言い、ひとくさり得意先の悪口。この人は、憎まれ口しか叩けない。その話のなかで、得意先を担当している竹中リーダーが出張に同行することが分かった。
「竹中さん、得意先から信頼されていますよね。みんな、そう言っています」と僕は言った。すると、北風上司は、「竹中、あいつといても楽しくないんだよな」と、聞こえるかどうかの声でつぶやいた。
僕は、即座にがっかりした。こんな言葉を聞けば、誰だって、「自分も陰ではこんなふうに言われているんだ」と考えるに決まっている。僕だってそうだ。この間赤字を出したことも、裏で何を言われているか分からない。不幸にも、同じ方向の電車に乗らなくちゃいけない。無駄なことを言うのはやめよう。黙っておこう……。
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