大久保忠隣の失脚後も、正信は息子の正純(まさずみ)と共に暗躍を続けます。慶長19(1614)年の「方広寺鐘銘事件」です。

 豊臣秀頼が京都・方広寺の鐘に刻んだ「国家安康」と「君臣豊楽」の文字が、「家」と「康」の文字が離れているのに、「豊」と「臣」の文字は隣接しており、徳川家を呪詛(じゅそ)し、豊臣家の繁栄を祈願していると、正信が言いがかりをつけたのです。この事件が大坂の陣につながり、ついには豊臣家を滅亡へと向かわせました。

家康が亡くなって2カ月後に没す

 元和2(1616)年4月、家康が死去すると、正信は家督を嫡男の正純に譲り隠居します。正信は、出戻りであり家康と極めて近かった自分が、ほかの側近たちに嫌われていることを、ずっと心に留めてきました。

 禄高は当初の1万石から2万2000石に加増されましたが、その後、家康からさらなる加増の打診があっても、「絶対に上げないでいただきたい」と辞退していました。自分を嫌う者たちから、無用の恨みを買うことを恐れたからです。

 正信は家督を継いだ正純に、「わしの死後、必ずや加増を賜るだろう、だが禄高3万石までは賜ってもよいが、それ以上は決して受けてはならぬ。危険だ」と言い聞かせ、正純も「分かりました」と答えました。そして正信は家康が没して2カ月後に、後を追うように亡くなります。享年79歳でした。

 しかし正純は、正信の死の直後、父の教えに背いて、約1万石を加増され下野国小山藩3万3000石の大名となることを承知しました。さらにその3年後には、下野国宇都宮藩15万5000石の加増を受けます。

 正純も父と共に、家康の側近として権力を行使してきました。正信の危惧が現実のものとなります。

 正純は政敵をはじめ、周囲の人々から恨みを買っていましたが、遠慮なく加増を受けたことで多くの人々から怒りを買い、正純は後世にいう宇都宮城釣り天井事件などをでっち上げられ、秀忠への謀叛の疑いをかけられ、本多家は改易となります。のちに正純は出羽国横手(でわのくに・よこて)の粗末な屋敷に幽閉の身となって、そのまま生涯を終えるのです。

 正純には正信ほどの、苦労人における配慮がたらなかったようです。今日でも同じようなケースは形を変えて、くり返されているように思います。

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