これに真っ向から反対したのが、四天王の1人・本多忠勝(ただかつ)です。「すぐにも三成を打つべきだ。ものには勢いというものがある。その勢いを失っては勝てない」とぶち上げました。

 家康も、西上策を考えていましたが、「忠勝の意見がいいように思う」と述べて、徳川家の総意としました。そのうえで、作戦を実行するに当たっては、誰をどう動かしたらよいかという、個別の作戦を次に立てていきました。

 正信は肝心なところで読みを誤ったわけですが、家康はだからといって正信を責めることはしませんでした。正信もあがきません。普通の人間なら、失敗を取り戻そうとあがき、それでまた傷口を広げるものですが、彼はそうはしませんでした。正信は、自分には次の役割があるはずと考え、我慢することができる人間でした。

 家康が正信に期待したことは、ここです。家康は、けんか腰の三河武士が多い中で、慌てない正信には、引き続き冷静に状況を見ていてほしいと思っていたはずです。

家康を征夷大将軍に仕立てたのも正信

 関ヶ原の戦いののちは、正信は徳川政権樹立のために暗躍します。関ヶ原で勝ったからといって、次の日から家康が天下を取れるわけではありません。大坂には豊臣秀頼(ひでより)もいます。

 そこでまず正信は、家康を征夷大将軍に就任させるため、朝廷と交渉します。その功あって慶長8(1603)年、家康が征夷大将軍に就任して江戸幕府を創設すると、正信は側近として幕政を補佐する立場へ。

家康を征夷大将軍にしたのも、浄土真宗の勢力を弱体化させたのも、正信の力が大きかった(画・中村麻美)
家康を征夷大将軍にしたのも、浄土真宗の勢力を弱体化させたのも、正信の力が大きかった(画・中村麻美)

 同じころ、勢いを誇っていた京都の本願寺で、前法主と現法主が対立しているのを見た正信は、本願寺の分裂を画策し、東本願寺と西本願寺に分かつことにも成功しています。これにより、かつて自分が身を投じていた浄土真宗の勢力を一気に弱体化させました。

 慶長10(1605)年に家康が隠居して、大御所となり、駿府(すんぷ)城に居を移し、秀忠(ひでただ)が2代将軍になった後は、正信は秀忠のもとで幕政に参画しました。2年後には秀忠付きの年寄(のちの老中)となります。

 このとき秀忠の側近ナンバーワン(年寄<としより>の筆頭)だったのが、正信の恩人である大久保忠世(ただよ)の嫡男・忠隣(ただちか)でした。忠隣は恩人の息子であっても、正信にとってはライバルだったわけです。そのような状況だったときに、忠隣が豊臣秀頼と内通し、謀叛の疑いがあるとの噂が流れます。

 この噂は正信が流したものなのか、流れてきた噂を正信が利用したのか定かではありませんが、正信はこの噂を家康に報告するとともに、さらに悪い噂を流すという罠(わな)を仕掛けます。その結果、忠隣は慶長19(1614)年に改易されることになります。

 正信は、世情をよく捉えていただけでなく、家康が今何を考え、しようとしているかも、冷静に見ていました。

 将軍以上の権力を握る忠隣を、家康が苦々しく思っていたことを正信は見抜いて動いたのです。また家康も、耳に入ってくる忠隣の噂が、正信の罠だと見抜いていました。ですが家康は、それを見て見ぬふりをします。2人の阿吽(あうん)の呼吸がうかがい知れる場面でした。

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