家康は、次に潰すのは上杉景勝(かげかつ)と考えていました。ですが、この時点では五大老と五奉行だけでなく、全国の大名の誰が敵でどの大名が味方なのか、はっきりとは分からない状況でした。このような状況で、明らかになった大名を1人ずつ潰していくのは効率が悪い。そこでまた正信が、ある策を考えます。

 このころ、加藤清正(きよまさ)ら武断派大名と石田三成(みつなり)がもめていました。そこで家康はその仲裁をするふりをして、清正らを支援し、三成に「(居城の)佐和山にしばらく蟄居(ちっきょ)していたほうがいい」とアドバイスします。この佐和山城に蟄居させるという策は、正信が進言したものでした。

正信のもくろみ通りに三成は動いた

 話は少し遡りますが、関ヶ原の戦いの前年、加藤清正、福島正則(ふくしま・まさのり)ら7将が、石田三成を襲撃するという事件が起こったとされます。私は、これは作り話だと思っていますが、もめていたことは確かです。そこで、敵か味方かを鮮明にするために、三成が自由に行動できる環境をつくるべく、蟄居を思いついたのです。

 関ヶ原の戦いを“設計”したのは石田三成ですが、彼を挙兵に導いたのは本多正信でした。

 慶長5(1600)年6月、家康は上杉征伐のため大坂から軍勢を率いて会津に出征します。すると、正信のもくろみ通り三成は動き出しました。三成側に付く大名も明らかになっていき、三成と彼らは関ヶ原の戦いへと向かっていくのです。

「関ヶ原の戦いを最初に設計したのは正信と言っていいでしょう。ですが、立ち上がった西軍の軍勢の数を読み違えます…」(筆者の加来耕三氏)
「関ヶ原の戦いを最初に設計したのは正信と言っていいでしょう。ですが、立ち上がった西軍の軍勢の数を読み違えます…」(筆者の加来耕三氏)

 これで敵味方がはっきりしたわけですが、正信もここで1つ大きな失敗をしています。

 正信は、三成の軍勢は合わせて最高でも2万と計算していました。家康の上杉征伐軍は5万8000。三成軍は最大2万ですから、5万8000を半分に分けて、上杉と三成に、同時に当てればいいと正信は考えていたのでした。ところが蓋を開けてみたら、西軍はなんと10万。正信は真っ青になるわけです。

 上杉征伐軍が下野国小山(しもつけのくに・おやま)に達したところで、家康はこの事態にどう決断すべきか、軍議を開きます。

 ここで面白いのは、家康は相変わらず自分には優れた才能がないと思っているため、彼は絶対に「自分はこうしたいからこうする」とは言いませんでした。12年の人質生活がありますし、織田信長、秀吉にもずっと頭を押さえつけられてきた故の、性格的な問題もあると思います。

 家康は、何人かがいろいろな意見を述べたところで、「○○の意見が良いように思う」という言い方を、常にするのです。全員に話に参加させて、「それで決まったことだから仕方がない」と、全体に統一感を持たせるためでもあったと思います。

 このときの軍議で、自分の計算、読みが違って泡を食っている正信は、上杉征伐軍を解散しようと進言します。征伐軍に参加している各大名は大坂城に人質を取られており、本気で西軍と戦うとは思えない。徳川の軍勢は急ぎ関東に戻り、箱根の関所を固めて西軍が攻めてきたら、そこで迎え撃とうと言ったのです。

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