2023年の本コラム第1回は、本多正信(まさのぶ)の後編です。関ヶ原を仕掛けたのは、実は正信でした。豊臣秀頼を追い込んだ「方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件」も正信の知恵――などなど、徳川家康の天下取りに尽くした正信ですが、後半生では大きな失敗もありました。加来耕三氏に、家康が秀吉に関八州に移封されたのちから、没するまでの「本多正信」についてまとめてもらいました。

 本能寺の変後、三河・遠江(とおとうみ)・駿河(するが)・甲斐・信濃を手に入れた徳川家康でしたが、今度は天正18(1590)年、豊臣秀吉にこの5カ国を召し上げられてしまいます。

 代わりに関八州=関東8カ国への移封を命じられるわけですが、8カ国を与えられたといっても、関東は三河など5カ国と比べると、部分的にほかの城主の土地も入り混じっていて、ことごとく後進地域でした。石高にしても、実質は6カ国分ぐらいしかありませんでした。

 この移封を受け入れざるを得なかったのは、家康は秀吉に対して、交渉する材料、仲介者も持っていなかったからです。こうなったら、家康はこの地で力を付けていくしかありません。そこで活躍するのが、またもや本多正信だったのです。

関東総奉行に任命される

 天正18(1590)年、家康が関東に移封されると、家康は正信に相模国玉縄(さがみのくに・たまなわ)1万石の所領を与えて大名にします。ただし、ほかの重臣たちの禄高(ろくだか)はほとんどが10万石前後でした。

 それでも家康は、正信を大名に取り立てると同時に関東総奉行に任命します。家康が大坂(現大阪)に詰めていて不在の江戸で、正信は江戸の町づくりと管理、運営、および江戸城の改築の指揮を任されました。正信は無事に、その大役を果たします。正信は領国経営にもたけていたのです。

 秀吉の没後は、家康は自分もその1人である五大老を、1人ずつ潰していくことを考えていました。最初に目を付けたのが前田利長(としなが)です。

 関ヶ原の戦いの前年、利長は、父・利家(としいえ)から(秀吉の死後)3年は上方を離れるな、との遺命を受けていたにもかかわらず、家康の勧めに従って加賀へ帰国します。

 家康の意をくんだ正信は、「利長が家康に対して謀叛(むほん)を企てている疑いあり」との嫌疑をかけます。家康が加賀征伐を言い出すと、利長は母親の芳春院(ほうしゅんいん=まつ)を人質として江戸に差し出して頭を下げ、交戦を回避しました。

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