2023年のNHK大河ドラマは「どうする家康」が放映される予定で、今度は戦国時代が話題になりそうです。今回から何回か、徳川家康を取り巻く武将たちについて加来耕三氏に語ってもらいます。その第1回は本多正信(ほんだ・まさのぶ)です。ただ、武闘派の本多忠勝(ほんだ・ただかつ)が目立って、正信については印象が薄い人も多いのではないでしょうか。

 実は正信は、徳川家康が幕府を打ち立て、軌道に乗せていく場面で数々の大きな活躍をした武将です。前編では、家康が三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の国を治めるようになるまでの正信についてつづってもらいました。優秀な正信ですが、失敗もあります。それについては後編で述べてもらいます。

 徳川家康の家臣・本多正信は、戦国時代から家康に参謀として仕えた側近でした。家康は4歳年上の正信を「好物」と言ってはばからず、主従を超えた友情で結ばれた盟友でもありました。

 家康が天下を取ったのも、多くは正信の働きでしたし、天下を取った後、家康が征夷大将軍に就けたのも正信の働きかけが大きかったといえます。家康が大御所となってからも側近として、また二代将軍・秀忠(ひでただ)の側近としても仕えました。

「家康は本多正信を『好物』と言ってはばからない盟友だったんですが、正信は家康を本気で殺そうとしていた時期もあるんです」(筆者の加来耕三氏)
「家康は本多正信を『好物』と言ってはばからない盟友だったんですが、正信は家康を本気で殺そうとしていた時期もあるんです」(筆者の加来耕三氏)

 そのような正信ですが、同じく家康に仕え、大いに貢献したとされる徳川四天王にも、徳川十六神将にも選ばれていません。四天王や十六神将が、主に戦場で活躍した武断派の武将であるのに対して、正信は戦時には軍略、平時には国政をつかさどった文治派だったこともありますが、理由はそれだけではありませんでした。

 大きな理由は、正信は、家康がまだ松平元康(まつだいら・もとやす)と名乗っていたころ、家康に背いて、家康を殺そうとした男だったため、家康の家臣団からは冷たい目で見られていた人物だったから、と考えるのがよさそうです。

鷹匠をしながら松平に仕えていた本多家

 本多正信の家はもともと曾祖父(そうそふ)の代から、松平家に仕えていましたが、あまりに貧しかったためか、鷹匠(たかじょう)をして生活を支えていたといわれています。正信は幼いころから家康に近侍し、家康が今川家へ人質となった際は随行しています。

 永禄3(1560)年の桶狭間の戦いでは、今川義元(いまがわ・よしもと)の指揮下で戦う家康のもとで、正信も戦いました。そして義元が頓死すると、今川家から独立した家康に従い、正信も三河に戻ります。

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