黒田官兵衛の後編です。黒田家の家督は嫡子の長政に譲られ、大藩である筑前(ちくぜん)福岡藩を、その後も黒田家が代々治めることになります。実は官兵衛が、長政のことを上手にサポートしたことが、その背景にありました。秀吉との間であった自分の失敗を反省し、息子までが、時の天下人に疎まれてしまわないための策を講じた官兵衛の晩年を、加来耕三氏に詳しくつづってもらいました。
黒田官兵衛や、著名な歴史人物の失敗から学ぶ加来耕三氏の代表作、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』もぜひ、ご参考ください。
前回、本能寺の変のことを聞いて、羽柴秀吉(はしば・ひでよし)が声を上げて泣き続けていたとき、黒田官兵衛(くろだ・かんべえ=黒田孝高<よしたか>)が秀吉を慰めようと言った一言、「秀吉殿、ご運が開けましたな」は余計な一言だったと述べました。これは「よかったではありませんか。これであなたが天下を取れますよ」と言ったのも同然ですが、なぜこの一言が問題になったのか。
それは、秀吉も同じことを心中で考えていたからです。
天下を狙うほどの、人物の頭の中は複雑にできています。秀吉は単に感傷的になって泣いていたわけではないのです。泣きながら考えていた。どうしたら、この逆境を跳ね返すことができるかを計算していたのです。その計算を、横にいた官兵衛に図星を指されたわけです。

徳川家康でも前田利家でもなく官兵衛だ
おそらく秀吉は、息が止まるくらい驚いたことでしょう。ゾッとして背筋が凍ったと思います。天文6(1537)年生まれの自分より若い、天文15(1546)年生まれの官兵衛が、同じことを考えていたのですから、この男はいずれ、自分にとって絶対に危ない存在になる、と思ったわけです。
秀吉は、仮に自分が死んだら次に天下を取るのは、徳川家康(とくがわ・いえやす)でも前田利家(まえだ・としいえ)でもなく、2人より若い官兵衛だと思っていた、と伝えられています。秀吉は、「天下を取るには官兵衛が必要だが、天下を取ったあと、最初に除かなければいけないのはコイツだ」と考えたわけです。
黒田官兵衛は前回述べたように、山崎の合戦以降はほとんど合戦に送り込まれなくなりました。四国攻めには加わりましたが、このときも兵は率いず、将兵の監視役である軍監(目付)として行っただけでした。軍略会議への出番もなくなりました。明晰(めいせき)すぎる頭脳を警戒され、秀吉に遠ざけられたのです。
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