秀吉は2万7500の兵力を持っていましたが、後ろから毛利が攻めてくるかもしれません。そこで用心のために、姫路など何カ所かに迎え撃つ兵を配置しながら畿内へ帰ってきました。着いたときには1万人を切ることになる可能性が高かった。そうなると、そのとき信孝の軍勢は7000~8000ですから、秀吉とほぼ互角です。

 ところが、実際は秀吉が総大将になった。なんと秀吉は、3万の兵力を率いて現れたからです。どこから2万を持ってきて、合計3万にしたのか。これにも黒田官兵衛が関与していました。

高山右近が秀吉軍に合流したのも官兵衛の策

 中国大返しのとき、官兵衛は姫路城に3日間とどまりました。何をしていたかというと、信長の首が京都の二条河原や三条河原に晒(さら)されていないか、調べていたのです。もし晒されていたら秀吉軍の兵力が増えることはなかったでしょう。

 調べた結果、首が出ていないことがわかりました。そこで官兵衛は、信長は生きているという想定での書状を、秀吉に書かせます。畿内にいる大名たち、高山右近(たかやま・うこん)や中川清秀(なかがわ・きよひで)らを秀吉軍に合流させるための書状です。

 畿内の大名たちは、本能寺が焼け落ちたことを知っています。九分九厘、信長は死んだと思っています。しかし、信長の首は出ていない。万が一、信長が本当に生きていて、自分が秀吉軍に合流しなかったら、あとで信長からどんな目に遭わされるかと思うと、怖くてしかたがない。であれば、秀吉の言うことに従っておこう、となるわけです。

 右近らが軍勢を率いて合流したことによって、秀吉軍は総勢3万を超えました。信孝は仕方なく、総大将の座を譲ったのです。

 さらに官兵衛は、戦いの橋頭堡(きょうとうほ)となる山崎の集落を合戦前日に押さえました。そのおかげで秀吉はこの合戦に勝てた、と言ってもいいくらいです。

 しかし、面白いのはここからです。

 官兵衛は、山崎の合戦以降はまったくと言っていいほど合戦に姿を現していません。毛利と宇喜多(うきた)の領地争いの交渉役など、あまり重要でない机上の仕事ばかりやらされるようになります。ここから官兵衛の、失意の人生が始まっていました。

 なぜこのようなことになったのでしょうか。官兵衛は、秀吉が本能寺の変で信長が横死したと聞いたとき、言わなくていい一言を、つい秀吉に言ってしまったのです。これが運命の別れ道でした。私はビジネスパーソンに、ここを学んでいただきたいと思います。

 このとき秀吉は、ワンワンと声を上げ、この世が終わったかのような顔をして泣き続けていました。あまりにも悲しそうに泣いている秀吉を慰めようと、官兵衛が一言、つい言ってしまいました。「秀吉殿、ご運が開けましたな」と。これが余計な一言でした。

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