人は道が2つあれば明るいほうを選ぶ

 では、このような状況でどうすれば中国大返しができるのでしょうか。

 官兵衛はまず、自軍内に噂を流しました。「秀吉様が光秀を討ったら、上様(信長)に代わって秀吉様が天下を取る。秀吉様が天下を取ったら、将校は大名に、足軽は将校になれるぞ。こんなすごいことがあっていいものか」という噂を流したのです。

 人間は、同時に2つの道が示されると、暗いほうより明るいほうを取るものです。秀吉の首を取ってどちらかに走るという暗い道と、自分の力で階段を駆け上り、未来を切り開くという明るい道の2つがあれば、明るいほうを選択するでしょう。

 かつて敵だった者も、みなその話に乗ったからこそ、中国大返しは考えられないほど凄(すさ)まじい速さでなされたのです。秀吉が鞭(むち)を振るって「走れ、走れ」などとやってはいませんでした。みな自発的に「己の欲」で走ったのです。これが、中国大返しの成功した大きな理由です。

「中国大返しは、兵一人ひとりが『己の欲』で走ったのです。そう仕向けたのが黒田官兵衛でした」(筆者の加来耕三氏)
「中国大返しは、兵一人ひとりが『己の欲』で走ったのです。そう仕向けたのが黒田官兵衛でした」(筆者の加来耕三氏)

 中国大返しで、黒田官兵衛が打った手はこれだけではありません。

 毛利軍が本能寺の変を知れば、もちろん追いかけてきて打ち掛かってきます。そこで官兵衛は残って、備中高松(びっちゅうたかまつ)城を水攻めにするために築いた堤防を決壊させ、近辺を水浸しにして、追いかけてこられないようにしてから引き上げていったのです。

 それでも、毛利軍も本能寺の変を知って、あとを追おうとする毛利元就(もうり・もとなり)の次男・吉川元春(きっかわ・もとはる)が出てきましたが、三男の小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)が「ここまで用意周到に事を運んでいるのだから、おそらく秀吉は明智に勝つ。ここは追わずに貸しをつくったほうがいい」と言って制したのでした。

 こうして中国大返しは成功しました。次は明智光秀を討つ山崎の合戦です。しかし、ここでも多くの人が見落としていることがあります。山崎の合戦には、信長の三男・信孝(のぶたか)も参戦しました。それなのになぜ、総大将は秀吉だったのでしょうか。

 山崎の合戦は、信孝にとってみれば父・信長の弔(とむら)い合戦です。私たちの感覚では、どう考えても総大将は息子の信孝でしょう。

 それがなぜ、秀吉が総大将になったのか。これは戦国時代の合戦のルールを知らないと答えは出てきません。当時、連合軍を組んで合戦をする場合、自ら率いる兵力が一番大きい軍の大将が、総大将になるのが決まりでした。問題はここからです。

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