今回は、久しぶりの戦国武将、黒田官兵衛について、加来耕三氏にまとめてもらいました。秀吉の天下取りに大きく貢献したにもかかわらず、晩年は秀吉に避けられ、目立った活躍が見られなくなります。そこには、“あの一言”があったことは、読者の皆さんもよくご存じと思いますが、それをなぜ言ってしまったのか(前編)。後編では、その後、家康の時代になって以降の、長政との関係などについても詳しくつづってもらいます。

黒田官兵衛や、著名な歴史人物の失敗から学ぶ加来耕三氏の代表作、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』もぜひ、ご参考ください。

 羽柴秀吉(はしば・ひでよし)の軍師として活躍して、秀吉の天下統一に大きく貢献したのが黒田官兵衛(くろだ・かんべえ=黒田孝高<よしたか>)です。彼は、同じく秀吉の軍師だった竹中半兵衛(たけなか・はんべえ)と並んで、戦国時代随一の優秀な軍師といわれています。

 官兵衛最大の功績は、明智光秀(あけち・みつひで)による本能寺の変のあと、秀吉の「中国大返し」を成功させたことでしょう。中国大返しから山崎の合戦に至り、秀吉軍は明智軍を破りました。数えれば、本能寺の変からわずか11日後のことでした。これが歴史の結果です。

秀吉の中国大返しを成功させた軍師、黒田官兵衛。毛利軍の追撃を阻止するため、備中高松城を水攻めにしていた堤を解き、周辺を水浸しにした(画・中村麻美)
秀吉の中国大返しを成功させた軍師、黒田官兵衛。毛利軍の追撃を阻止するため、備中高松城を水攻めにしていた堤を解き、周辺を水浸しにした(画・中村麻美)

滝川一益はパニックになって逃げ帰った

 ですが、結果だけ見たのでは、私たちが歴史から学ぶことはなく何一つ、勉強にはなりません。問題は、わずか1週間程度でおよそ200キロもの距離を移動させる中国大返しが、なぜできたのかということです。このようなことはあの時代、普通はできないことです。

 秀吉が率いた中国方面軍は2万7500でしたが、うち秀吉の直属の家臣団は5000しかいませんでした。残りは織田信長(おだ・のぶなが)軍に負けて従うこととなった者たちでした。中国方面軍は、かつて敵だった人間を含む混成部隊だったのです。

 目前には2万5000の毛利(もうり)軍がいます。当時の記録を読むと、秀吉は、毛利軍を5万だと思い込んでいたようですが、いずれにしてもその場の状況は緊迫していました。さらに背後の畿内には、1万7000とも1万2000ともいわれる明智光秀の軍勢がいました。

 もし私が混成部隊の将官の一人であり、秀吉の直属の家臣でなかったら、考えることは1つです。秀吉の首を取って、前の毛利軍を目指して走るか、後ろの明智軍に走るか、です。

 さらに言えば、信長が本能寺で討たれたと知ったら、軍団はパニックになって空中分解してしかるべきです。実際、関東方面軍を率いて交戦中だった滝川一益(たきがわ・かずます)は、信長横死を知った瞬間パニックになって動きが取れず、そこを北条氏政(ほうじょう・うじまさ)に攻め込まれて、ほうほうの体で逃げ帰っています。これが普通でしょう。

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