今回は、北条政子(ほうじょう・まさこ)の後編です。本当は悲劇の女性だったと指摘する加来耕三氏。後編では、源頼朝(みなもとの・よりとも)が亡くなり、出家して以降、尼(あま)将軍と呼ばれた政子の活躍と最期をつづってもらいました。北条政子は、加来耕三氏の著書、『鎌倉幕府誕生と中世の真相 歴史の失敗学2-変革期の混沌と光明』では、平清盛(たいらの・きよもり)編、北条義時(ほうじょう・よしとき)編などに登場します。

 北条政子は、源頼朝存命中は政治に口を挟むことはありませんでした。それが、頼朝が亡くなって出家して、尼になってから政治に関与するようになっていきます。ではなぜ、女性である政子が政治に関与できたのでしょうか。

 武家社会では、正室の役割も非常に大きいものがありました。夫が亡くなれば、正室は亡き夫の菩提を弔うと同時に、亡夫の職責を担い、未熟な子供たちを後見することが求められました。つまり政子は、初代鎌倉殿・頼朝が亡くなってからは、幕府の政治向きに関与し、源頼家(よりいえ)や実朝(さねとも)らを指導、監督する立場になったのです。

 建久(けんきゅう)10(1199)年に、嫡男の頼家が18歳で2代鎌倉殿となると、若い頼家は独断で専制的な政治を行います。

 これに反発した御家人たちが、「13人の合議制」を導入します。頼家が不仲な御家人・安達景盛(あだち・かげもり)の愛妾(あいしょう)を奪おうと、配下を使って邸を襲おうとしたときには、政子が「景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ」と強くいさめ、騒ぎを収めています。

 さらに頼家は、蹴鞠(けまり)などの遊興にふけるほか、自分の乳母夫(めのとぶ)である比企能員(ひき・よしかず)を重用したことで、比企氏が台頭したため、ほかの御家人たちが不満を高めます。これを北条家の脅威と感じた政子と父・北条時政は能員を誅殺(ちゅうさつ)し、政子の名で兵を送って比企氏を滅ぼしました。

2歳の将軍、三寅の後見となり実質的第4代鎌倉殿に

 頼家は政子の命により出家させられ、鎌倉殿の座を追われます。政子は実子・頼家を鎌倉殿から外すことで頼朝亡き正室としての務めを果たし、同時に、実家である北条家を、台頭してくる比企氏から守ったわけです。

 とはいえ、この後は政子も、実家ありきよりも、鎌倉幕府の長としての振るまいが顕著になります。

摂関家から、4代将軍に2歳の三寅を迎え、政子は三寅を後見し政務を代行することになりました。ついに政子は、実質的に鎌倉殿の座についたのです(筆者の加来耕三氏)
摂関家から、4代将軍に2歳の三寅を迎え、政子は三寅を後見し政務を代行することになりました。ついに政子は、実質的に鎌倉殿の座についたのです(筆者の加来耕三氏)

 建仁(けんにん)3(1203)年、政子の3男・実朝が12歳の若さで3代鎌倉殿になると、政子の父・時政が初代執権に就任します。ところが時政と彼の後妻・牧の方(まきのかた)は政権を独裁しようと、実朝を廃して、自分たちの娘婿である平賀朝雅(ひらが・ともまさ)を新たな鎌倉殿として擁立しようと画策します。

 政子は弟の北条義時とともに、この陰謀を阻止し、時政を出家させて追放するのです。結果、義時が2代執権に就きました。

 政子は、のちのちの災いを断って幕府の安定を図るため、頼家の子である公曉(くぎょう)を鶴岡(つるがおか)八幡宮別当(べっとう)にするなど、仏門に入れます。ところが健保(けんぽう)7(1219)年、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮にて儀式を執り行っていた実朝は、その帰りに公曉によって暗殺されてしまいます。

 政子は、鎌倉殿の任務を代行する形で京の朝廷へ使者を送り、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の皇子を将軍に迎えるべく準備を進めました。しかし、話はまとまらず、皇族からではなく、摂関家から三寅(みとら、のちの藤原頼経<ふじわらの・よりつね>)を迎えることになります。

 このとき三寅は2歳の乳幼児。そのため政子は三寅を後見して鎌倉殿の政務を代行することになり、実質的に“4代鎌倉殿”の座につくことになったのです。

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