では、「北条政子」という名前はどこで生まれたのでしょうか。
頼朝が亡くなって19年後、政子の次男・源実朝(さねとも)が3代鎌倉殿だった健保(けんぽう)6(1218)年4月、62歳となった政子は、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)から従三位(じゅさんみ)に叙せられることになりました。このときに手続き上、位階(貴族の序列)を与える相手の名前が必要になったのです。
ただし本名は明かせませんから、父・北条時政(ときまさ)の娘ということで、時政の「政」の文字に、貴族社会で女性の名前の最後に付けていた「子」で、政子となったのでしょう。ちなみに同年10月、政子は従二位(じゅにい)に昇叙しています。
では政子は、頼朝の妻であるのになぜ「源政子」ではなく、北条政子なのでしょうか。それは、中世は母系社会で、女性は婚家よりも実家ありきだったからです。室町幕府8代将軍・足利義政の正室・富子も、実家が日野家であることから「日野富子」と呼ばれていました。
頼朝は、政子の実家である北条の力を使って鎌倉殿になりました。妻の実家の力や財力を夫が使うのは当たり前だったからです。頼朝が鎌倉殿となるまで、頼朝にもっとも貢献したのは政子の父・北条時政と言っていいでしょう。
その一方で、妻の実家は大きな力を持つことになります。娘の夫や子供などが実家の思い通りに動かないときは、実家は彼らを除こうとさえしました。後述しますが、2代鎌倉殿である源頼家(よりいえ)を除いたのは、政子の実家の北条家であり、政子本人もこれに荷担していました。

2代執権・北条義時の後妻は、伊賀の方(いがのかた)ですが、彼女の実家である伊賀氏は、伊賀の方と義時の間の子、北条政村(まさむら)を3代執権に、また伊賀の方と義時の娘婿である一条実雅(いちじょう・さねまさ)を、実朝の次の鎌倉殿に立てようと企てました。その画策をする中で、伊賀の方が義時を毒殺したという説もあります。
私もこの説を支持しています。いずれにしても、中世の女性たちは実家ありきなのでした。
北条は平氏の末裔なのか
ところで、北条政子は「平政子」と表記されることがあります。これは、北条家が平氏の末裔(まつえい)とされていたためです。
姓は、もともとは天皇から賜るものでした。例えば「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」は、奈良時代以降に繁栄した氏族である源、平(たいら)、藤原(ふじわら)、橘(たちばな)の4氏を指したものです。いずれも、天皇が臣下に授けています。
この中で、皇族が臣籍、つまり天皇の臣下に下りる、臣籍降下の際に下賜された氏が、源と平です。藤原は、大化の改新に功績のあった中臣鎌足(なかとみの・かまたり)への恩賞として与えられた氏、橘のなかには、長年の朝廷での貢献が認められた女官が、仕えていた女帝から賜姓された氏もあります。
さらに、源氏(げんじ)の中で武家として繁栄したのが、嵯峨(さが)源氏、清和(せいわ)源氏、宇多(うだ)源氏です。平氏には4流ありましたが、武家として繁栄したのは第50代天皇・桓武天皇(かんむてんのう)の系統である桓武平氏だけでした。この中から出たのが、平将門(まさかど)、平清盛などです。
藤原からも武家の子孫が多数出て全国に広がっていて、橘からも細々ながら武家が出ています。
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