今回は、源義経です。判官贔屓(ほうがんびいき)の人には、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれた義経に、眉をひそめた方が多いかもしれません。とはいえ最後は、悲劇の人に違いありませんでした。加来耕三氏は、義経がなぜ悲劇の人になったのか、歴史の真実をひもときながら解説してくれました。加来耕三氏の著書、『歴史の失敗学 25人の英雄に学ぶ教訓』と、新刊『鎌倉幕府誕生と中世の真相 歴史の失敗学2-変革期の混沌と光明』では平清盛編、源頼朝編などに、登場します。

 前回取り上げた源頼朝(みなもとの・よりとも)は、完全に人間不信の人でした。自身を担ぐ坂東(ばんどう)武士団も、実の弟たちも、自分に取って代わろうとしている政敵だ、と疑いました。

 武士団の上総介広常(かずさのすけ・ひろつね)や一条忠頼(いちじょう・ただより)は誅殺(ちゅうさつ)し、弟の範頼(のりより)は伊豆に流刑とし、義経(よしつね)を追討しました。

 対して源義経は、人を信じては裏切られ続けた人物です。裏切られた原因の多くは、義経の思い違い、勘違いだったのですが、本人は裏切られたと強く恨んでいました。

源義経は、一ノ谷の戦いでの「鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかお)とし」と呼ばれる、誰もやろうとは思わない奇襲(絵)などで平家を滅亡させた。鎌倉幕府創始の英雄だが、兄・頼朝に討たれる(画・中村麻美)
源義経は、一ノ谷の戦いでの「鵯越(ひよどりごえ)の逆落(さかお)とし」と呼ばれる、誰もやろうとは思わない奇襲(絵)などで平家を滅亡させた。鎌倉幕府創始の英雄だが、兄・頼朝に討たれる(画・中村麻美)

 まず、義経が物心ついたとき、自分の父親は平清盛(たいらの・きよもり)だ、と思っていたでしょう。

 義経は元治元(1159)年に、源義朝(よしとも)と常盤御前(ときわごぜん)の間に生まれました。しかし、義朝は同年に起こった平治の乱で敗れて敗走し、翌年殺害されています。義経に父・義朝の記憶は、もちろんありません。

 母の常盤は、当時のいわばミス日本といっていい絶世の美女で、清盛はその美貌に心を動かされ、家を持たせて妾(めかけ)の一人にします。乳飲み子だった義経は、処刑や流刑を許され、その家で常盤と一緒に暮らします。足しげく通ってくる清盛を、物心ついたころから義経が、父親だと思って不思議はありません。

 常盤は、清盛との間に女の子を産みます。ところがその後、清盛は常盤を公家の大蔵卿(おおくらきょう)・一条長成(ながなり)のもとに再嫁させます。そのとき義経は、初めて清盛が父親ではないと知ったのです。自分が勝手に父と信じただけなのですが、清盛に捨てられたと思ったことでしょう。

 常盤が長成と結婚すると、義経は新しい父親とうまくいかず、7歳のとき、鞍馬寺(くらまでら)に預けられます。このとき義経は、愛してやまなかった生みの母にも捨てられた、と思うわけです。

 室町時代に成立した軍記物語『義経記(ぎけいき)』によると、義経は、鞍馬寺の僧侶から自分が源氏の嫡流と知らされ、自分の父だと思っていた清盛が敵(かたき)だと知って、怒り心頭に発し、平家打倒を決意したとあります。

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