宣旨が下されるまで、頼朝は孤独だったと思います。噓がいつバレるかとビクビクしながら、噓に噓を重ねて、自分を精神的に追い込んでしまっていったと思います。誰にも相談できません。弱音も吐けないわけです。

 最初にハッタリをかました治承4年から寿永2年までの3年もの間、毎日じっと孤独とストレスに耐え続けてきた頼朝──。その精神力は、ある種すごいと思います。

 頼朝は53歳で亡くなりました。落馬が遠因で亡くなったといわれますが、死因は定かではありません。

 『吾妻鏡』には、亡くなる5年前に歯の病に苦しんだことが記されていて、歯周病であったことが考えられます。ストレス過多で免疫機能も低下していたでしょう。落馬は一過性脳虚血の発作をうかがわせ、頭を痛打したならば、硬膜下血腫の可能性もあります。ほかに、脳卒中、糖尿症、誤嚥(ごえん)性肺炎が疑われています。

徳川家康も学んだ鎌倉幕府誕生の真相

 さて、鎌倉幕府です。約150年つづきました。私は、ハッタリで鎌倉幕府を興し、その心痛により53歳で頼朝が亡くなったからこそ、この新政権は長つづきしたと考えてきました。

 幼い頃から、京の朝廷の奥深いところを知っていた頼朝は、坂東の武士団と違って、朝廷の何たるかを理解していました。その彼が思い描いていた理想の政権は、京の朝廷のそば近くで幕府を開くという、平清盛が行った政権の焼き直しだった可能性が高かったと思います。

 『玉葉』によれば、建久2(1191)年に頼朝は、娘の大姫(おおひめ)を後鳥羽(ごとば)天皇に入内(じゅだい)させようとしています。これは、娘を天皇に嫁がせて朝廷と外戚関係を結んで、権力を握った藤原摂関家や清盛のやり方と同じです。ただ、大姫は建久8(1197)年に亡くなってしまい、頼朝の計画は頓挫します。

 鎌倉幕府は、頼朝の死によって鎌倉を動かずに済みました。京と距離を置くことで、朝廷や公家の影響を受けない、独立した盤石な地方政権として確立したのです。その過渡期にいたのが「鎌倉殿の13人」であり、地方政権として鎌倉幕府を完成させたのが北条義時(よしとき)であり、その息子の泰時(やすとき)でした。

 清盛の平家政権は、平治の乱から壇ノ浦までのわずか26年しか持ちませんでした。もし頼朝が鎌倉から京、あるいは京の近くに幕府を移すなど、思い通りにことを進めていたら、おそらく鎌倉幕府も平家同様に短命で終わっていたでしょう。

 150年続いた鎌倉幕府から学んだのが、のちの徳川家康(とくがわいえやす)です。京から遠く離れた政権運営のメリットを大いに参考にし、江戸で265年続く徳川幕府を開いたのです。


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