頼朝のペテン、フェイクには、以仁王の令旨の“偽証”もあったと考えています。令旨に書いてないことを「こう書いてある」と偽ったのです。
おそらく頼朝は、何よりも自分の領地の安堵と拡大を生命(いのち)とする武士団に向かって、「令旨には、以仁王の後ろにおられる後白河法皇が、源氏の棟梁である私に、関東のことはすべて任すと書いてある。私の言うことを聞けば、貴公らの恩賞、一所懸命の土地は保証する。これから戦う上で私の言うことを聞いたならば、土地は存分にくれてやる」と。
以仁王の令旨は、東国の多くの源氏に送られましたが、書いてあることはどれも同じです。「源氏よ立て、平家を討て」だけです。それを無学で漢字が書けない、読めない坂東の武士団をいいことに、噓で固めた令旨に頼朝は仕立て上げたわけです。
下手をすれば、平将門になっていた
ハッタリで坂東武士団のトップに立った頼朝ですが、そのために彼は、自分で自分を追い込んでしまうことになりました。もし噓がバレたら、武士団に確実に殺されます。頼朝の価値は、本来、その程度のもの。
実際、公家の右大臣・九条兼実(くじょうかねざね、藤原兼実、のちに関白)が書いた日記『玉葉(ぎょくよう)』には、頼朝の挙兵について「謀反人・義朝の子、決起す」と書いてあるだけで、頼朝が、源氏の棟梁とも、令旨に応じて立ち上がったとも書かれていません。
頼朝の作り話に関係した人物がもしいるとしたら、それは北条時政ただ一人だったでしょうが、だとしても頼朝の孤独は変わりません。
バレないためにどうしたらいいか。そのためには、噓を一刻も早く既成事実にするしかありませんでした。
治承4(1180)年に挙兵した頼朝は、そのあとの富士川の合戦を制し、そのまま上洛しようとしましたが、上総介広常(かずさのすけひろつね)などに止められて果たせませんでした。
翌年の治承5(1181)年、まだ平家との戦いの最中であるにもかかわらず、後白河法皇に頼朝が密奏した証拠が残っています。
これは鎌倉幕府の正史とされる『吾妻鏡(あずまかがみ)』には触れられていませんが、先の『玉葉』にはちゃんと記されています。
密奏で頼朝は、法皇への忠誠を誓うとともに、「もし後白河法皇が望まれるなら、右手に源氏、左手に平家を持たれたらいかがですか」と提案しています。源氏と平家の両方を握ってはどうかとは、後白河法皇にとって実に都合のいい提案です。
後白河法皇はこの提案を、「どうだろうか?」と討つ相手であるはずの清盛の後継者・平宗盛(むねもり)に持ち込んだものの、拒絶されたため、受け入れませんでした。このことも『玉葉』に書かれています。宗盛が断るのも無理はありません。なにしろこの時点で平家は、大敗を喫していませんから。
その後も頼朝は、必死に何度も後白河法皇に密奏を企て続けます。そして、木曾義仲の上洛、法王と義仲の不仲があって、ようやく寿永2(1183)年10月に、法皇から頼朝に宣旨(せんじ、天皇の命令を伝える文書)が下されるのです。
「寿永2年10月宣旨」といわれるこの宣旨には、「東国における荘園・公領の領有権を旧来の荘園領主・国衙(こくが)に戻すように。戻さない者がいたら、頼朝に命じて討たせる」などと書かれていました。宣旨が出る前には、勅勘(勅命による勘当)を解かれて、頼朝の官位も戻っています。
この宣旨が、特に後半の「頼朝に命じて討つ」の部分が、頼朝は喉から手が出るほどに欲しかったわけです。これで、「後白河法皇から東国のことはすべて任されている」などといった噓八百に、法皇のお墨付きがもらえたわけですから。
坂東武士団に殺される恐怖もさることながら、平家が滅亡する前に、頼朝が東国で勝手に土地を分け与えていることが法皇に知れたら、頼朝はかつて朝敵とされた平将門(まさかど)と同じことになったかもしれません。
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