頼朝はいつ山木兼隆に殺されるか、気が気ではなかったはずです。そこで舅(しゅうと)の北条時政に、全面的なバックアップを頼みました。
このタイミングで、以仁王の令旨の話が出てきたわけです。
頼朝は、少ない手勢を増やすためにも、これを利用して大ばくちを打とうと考えました。頼朝は、令旨に便乗する形で、平家方の兼隆を討ち取ります。さらにこののち、石橋山の戦いで正式に挙兵しますが、結果は大敗。頼朝はほうほうの体で、南関東を逃げ回ります。
木曾義仲は連戦連勝。頼朝は大敗も、坂東の大将に
頼朝の挙兵は、この程度のものでしたが、石橋山の戦いのわずか1カ月後、坂東の武士団は、この頼朝を“鎌倉殿”として担ぎ上げています。
実際に令旨を受けて信濃で挙兵した木曾義仲(きそよしなか、源義仲)は連戦連勝し、そのため付近の豪族たちが次々と傘下に入りましたが、挙兵してすぐに負けた武将を担ぐなど、普通、あり得ないことです。なぜ、坂東の武士団は頼朝を担いだのでしょうか。ここには彼の、作り話があったのです。
坂東武士団が頼朝を担いだ理由として、通説では、彼らは平家政権に不平不満を持っており、頼朝はこれに対抗できる源氏の棟梁(とうりょう)だから、ということになっています。
そもそも源氏とは、天皇の皇子が、臣下の籍に下りるときに賜った姓のこと。第52代の嵯峨(さが)天皇から分かれた嵯峨源氏が最初の源氏で、ほかにも第56代清和(せいわ)天皇から分かれた清和源氏などいくらでもあります。
清和源氏の中からは、佐竹(さたけ)、武田(たけだ)、新田(にった)、足利(あしかが)、木曾、細川(ほそかわ)、土岐(とき)など、各地に清和源氏の棟梁が生まれています。
頼朝も、源義家(よしいえ)から続く清和源氏の一派で、足利や新田と同族の河内源氏の中の系譜の、生き残りの一人に過ぎません。
坂東武士団を前に、頼朝はまず、自分は源氏の代表格=清和源氏直系の棟梁だ、とハッタリをかましたのです。
清和源氏の直系といえば、頼朝が生きていた時代は、清和源氏3代目の源頼光(よりみつ)の玄孫に当たり、以仁王と組んで平家打倒の挙兵を計画した源頼政(よりまさ)こそ正統となります。しかし、そんなことは、坂東武者たちは知りません。
13歳まで京で過ごした頼朝は、やんごとなき風情を身にまとっていましたから、彼はそれを武器にイチかバチかのイメージ戦略に打って出て、これに田舎者の武士たち引っかかってしまいました。
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