鹿ヶ谷の陰謀も以仁王の令旨も、後白河法皇が背後にいたことは同じです。3年たって、後白河法皇は以仁王を使って、鹿ヶ谷の陰謀の焼き直しをやったわけです。

 では、頼朝はなぜ自ら関係のなかった、以仁王の令旨に挙兵しようとしたのでしょうか。

頼朝の思いは「自由の身になれれば、それでOK」だった

 頼朝は20年間の流人生活を送りながら、牙を研ぐようにして平家打倒を考えていたなどといわれています。ですが実際は、平家打倒など考えていませんでした。

 当時は、「平家にあらずんば人にあらず」といわれる平家全盛の時代です。頼朝が考えていたことは「没収された荘園を少しでも多く返してもらい、自由の身になりたい」。これだけだったでしょう。

 だから頼朝は、平家の心証をよくするために、毎日お経を読んだり、写経をしたりするという、規則正しいつつましやかな生活を送っていたのです。

 頼朝が挙兵した理由は、のちに妻となる、北条時政(ほうじょうときまさ)の娘・政子(まさこ)が、頼朝のもとへ押しかけてきたからだ、と私は考えています。

「政子が頼朝のもとへ駆け込んできたことが、頼朝の挙兵につながっています。当時、婚姻は女性が男性を選ぶのが普通でした」(筆者の加来耕三氏)
「政子が頼朝のもとへ駆け込んできたことが、頼朝の挙兵につながっています。当時、婚姻は女性が男性を選ぶのが普通でした」(筆者の加来耕三氏)

 実は、流人時代の頼朝の唯一の楽しみが女性との恋愛でした。やたらと女性に手を出していたようです。その一人に政子がいました。

 この時代に、アイドルのようなイケメンのイメージがあるとするならば、京の雅の世界を知っていること。伊豆育ちの政子からすれば、13歳まで京で育った頼朝は、京の雅を身にまとった貴公子に見え、政子は頼朝に一目ぼれしてしまったわけです。

 こうなったことを、頼朝の監護役の一人である政子の父・時政が知りました。すると時政は、これが平家にバレたらまずいと、平家の一族である伊豆目代(代官)、山木兼隆(やまきかねたか)のもとに政子を嫁がせようと、山木に交渉し、OKをもらいます。

 政子が山木の家に収まれば、頼朝は元の写経と次の女性を追いかける生活に、戻ったと思います。そうなれば、歴史もまったく違ったものになっていたはず。ところが政子は、この山木の家から逃げ出し、頼朝のもとに駆け込んで来たのです。

 中世は人に笑われただけで、武士同士が殺し合いをする時代です。山木にしてみれば、妻として迎えた女性に逃げられ、笑いものにされ、メンツを潰されたわけですから、郎等(郎党)を引き連れて頼朝を殺しに行っておかしくない状況になったわけです。頼朝は、これは困ったことになったと思ったでしょう。

 当時の男女の交際は、貴族社会以外、すべて野合(やごう、正式の結婚手続きを踏まずに関係すること)でした。とはいっても、女性保護の観点からいえばよくできたシステムで、子供が生まれた場合、父親の名指しをする権利が女性にあり、男性に拒絶権はありませんでした。

 頼朝は、政子が自分の許へ来てしまった以上、山木と戦わざるを得ません。

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