今回は、源頼朝です。NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で盛り上がっている鎌倉幕府創設物語ですが、ドラマで頼朝は、従来とは違う描かれ方をしているという印象があるのではないでしょうか。6月に新刊『鎌倉幕府誕生と中世の真相 歴史の失敗学2―変革期の混沌と光明』を上梓した加来耕三氏も、頼朝には、状況に応じたハッタリや覚悟、精神力があったと語ります。さらに、なぜ鎌倉幕府が約150年続く政権となったのか、そこにも、頼朝の生き方が大きく関わっていたと指摘します。
日本初の武家政権、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)──。彼は、これ以降、700年近く続く武家政権の礎となる仕組みを構築するわけですが、彼には、通説とは異なる側面が多々ありました。

まず、頼朝が平家打倒のために挙兵した理由が、通説とは異なります。
後白河法皇(ごしらかわほうおう)の皇子である以仁王(もちひとおう)が治承4(1180)年4月に出した令旨(りょうじ、皇太子などが命令を下達するための文書)を受けて立ち上がった、といわれます。ですが私は、頼朝に以仁王の令旨は、直接は届いていなかったと思っています。
そもそも以仁王は、頼朝のことを知らなかったでしょう。
頼朝は13歳まで京で過ごしましたが、平治元(1159)年の平治の乱で父・義朝(よしとも)が敗れ、以来、令旨が発せられるまでの約20年間、伊豆で罪人として流人生活を送っていました。そのような人間を、以仁王が知っていたのでしょうか。
仮に知っていたとしても、犯罪者に令旨を出すことなどあり得ませんし、兵を持たない者に挙兵を促すこともあり得ません。
頼朝は令旨のことを、「諸国の源氏に令旨が出た」と触れ歩いた誰かから聞いたにすぎなかったのではないか、と考えています。
ところで以仁王は、令旨を発して何をやろうとしたのか。これは、その3年前の安元3(1177)年に起きた「鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀」をみれば分かりやすいと思います。
鹿ヶ谷の陰謀は、平清盛(たいらのきよもり)を除こうとした、後白河法皇派のクーデター未遂事件です。「平家を討て」と、諸国の兵力を持つ豪族の源氏に挙兵を促す予定でした。
彼らが挙兵すれば、京にいる平家は当然、討伐軍を出します。すると京はカラになる。カラになったところを、畿内の源氏と僧兵で占拠する作戦だったのですが、断行直前の密告により失敗しました。
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