今回は、伊達政宗の後編です。関ヶ原の戦い後も、実は天下取りの野望を失っていなかった政宗。彼の遣欧使節団は、その最後の手段だった? そんな政宗が、ついに「秀忠を頼む」と家康に頼られる日が来ます。この日を迎えたのも、政宗の振る舞いによるものでした。加来耕三氏が、政宗はなぜ、その時々でよりよい行動を取れたのか、明らかにしてくれました。

 伊達政宗は慶長6(1601)年、家康の許可を得て仙台に居城を移します。

今でも多くの人に慕われている伊達政宗。仙台城(青葉城)跡には「伊達政宗公騎馬像(3月の大地震で損傷、修復中)」が建てられている(画・中村麻美)
今でも多くの人に慕われている伊達政宗。仙台城(青葉城)跡には「伊達政宗公騎馬像(3月の大地震で損傷、修復中)」が建てられている(画・中村麻美)

 当時の仙台は、産業らしい産業がないところでした。そこで政宗は、海外と交易をして、それによって財政を豊かにしようと考えました。

 一方、徳川家康は関ヶ原の戦いを経て、天下平定をあらかた終えていましたが、この頃はまだ西には豊臣秀頼(ひでより)がおり、東に政宗がいて、家康はその真ん中に置かれた形です。家康としては両者に挟まれている状況は怖いけれど、その現状をどうしたらいいものか、結論の下せない状態でした。

 政宗は、海外交易を新しい経済政策として家康にも進言します。「これまでの南蛮貿易はすべて堺止まりでした。新しい交易ルートを太平洋側につくりましょう」と。家康は交易によって仙台藩が財力をつけるのは困りますが、交易地の終着を江戸湾にするということで、政宗の話に乗ります。

 政宗としては、江戸と仙台が貿易で富めばよいのです。では、交易の相手をどこにするか。政宗はスペインを交易の相手国と考え、さらにローマ教皇とつながりを持つことを考えます。

 政宗は外洋船を建造し、家康の承認を得て、慶長18(1613)年に慶長遣欧使節、俗にいう支倉(はせくら)使節をスペインおよびローマに派遣しました。使節団はスペイン国王やローマ教皇への、家康と政宗の親書を持参しました。政宗は、事前に親書を家康に見せて許可を得ています。 

 ここで政宗は、使節団の1人であるスペイン人宣教師に、ローマ教皇に直接伝えてほしいと、口頭でメッセージを託したといわれています。

 どんなメッセージだったのかは不明ですが、まことしやかにいわれている内容はこうです。「仙台藩主の伊達政宗はキリスト教に改宗します。これからは教皇のもとで戦いますから、日本統一のために力を貸してください」。まだこのとき、政宗は天下への野望を持っていた、というわけです。

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