今回は、遅れてやって来た戦国武将といわれる伊達政宗です。天下取りの野望を持っていたものの、時代は彼を追い越していってしまいました。ですが最後には、徳川幕府3代将軍・家光の顧問とも言える天下の重鎮となります。時の権力者と、どう渡り合ったのか。加来耕三氏に、政宗の処世術から、現代にも通じる身の立て方、処し方を明らかにしてもらいます。

 戦国大名・伊達家17代当主にして仙台藩初代藩主である伊達政宗(だて・まさむね)。彼はよく「遅れてきた戦国大名」といわれます。

 天文3(1534)年生まれの織田信長、天文6(1537)年生まれの豊臣秀吉、天文11(1542)年生まれの徳川家康に比べると、永禄10(1567)年生まれの政宗は、彼らより33歳から25歳若く、一世代あとの武将になります。信長・秀吉・家康と同世代なのは、政宗の父・輝宗(てるむね)でした。輝宗は天文13年の生まれです。

 東北地方に生まれた政宗は、まして政治はもちろん、文化面でも当時の日本の中心だった京都や畿内に比べて、遅れていました。秀吉が天下統一まであと一歩のところで、大坂城を築いた天正13(1585)年ごろでも、東北はまだ小豪族同士の泥臭い争いを繰り広げていました。

 そこへ天正12(1584)年、政宗18歳のときに父・輝宗から家督を相続して、戦国大名として出てきたわけです。確かに遅かった。しかし、歴史を振り返って言えるのは、遅かったからこそ、政宗の存在意義は、むしろ逆に高まったのではないか、ということです。

 東北の人々は、今もって政宗への尊敬の思いを強く持っています。なぜ政宗は愛され続けているのか。歴史的にまず言えることは、中央から遠く離れていた東北地方の文化水準が、伊達政宗一人のおかげでいきなり一気に上がったことがあげられます。

 天正18(1590)年の、秀吉の小田原征伐のとき、政宗は初めて全国区に名を知られることになりました。それまでは東北でいろいろやっていましたけれど、所詮は地方で暴れているだけのことでした。

次ページ 「梵天丸もかくありたい」