家康との親戚関係が解消に

 秀吉が亡くなった後、関ヶ原の戦いのときも政宗は微妙な動きをしました。

 慶長5(1600)年9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、東北の地でも西軍の上杉景勝(うえすぎ・かげかつ)と東軍の最上義光(もがみ・よしあき)が戦う、「北の関ヶ原」といわれた慶長出羽(でわ)合戦が起こりました。

 このとき東軍に属した政宗は、家康から最上に加勢して上杉を討つよう命じられます。ところが政宗は動かず、じっと戦況を見ているだけでした。そして関ヶ原で家康が勝ったという一報が届いた途端、最上を助けに行くのです。

 小田原征伐、葛西・大崎一揆の裁きでの政宗の応対を知っている家康は、今回の動きを見て、「コイツはやはり危ない」と思うわけです。しかし家康には、政宗を簡単には潰せない事情がありました。

 家康の六男・松平忠輝(ただてる)の正室に、政宗の長女・五郎八姫(いろはひめ)を迎えていたのです。政宗は、忠輝の義理の父親でした。しかも忠輝には、全国の金山、銀山を掌握し、幕府の財政を一手に握って強大な権力を持つ大久保長安(ながやす)が、後見人として付いていました。

 嫡子相続制は家康が言い出したものですが、当時はまだ定着していませんでした。2代将軍は秀忠と決まっていましたが、3代将軍は秀忠の長男・家光でなくてもいいと、幕閣も思っていたのです。大久保が後見人である忠輝が、3代将軍に就いてもおかしくはありませんでした。

 忠輝が3代将軍になると、政宗は将軍の義父として院政を敷く可能性があります。家康は、忠輝を3代将軍とすることは危険だと分かっています。ですが、幕府の台所を1人で握っているほどの力を持つ後見人の大久保には、家康といえども手が出せない状態だったのです。

 ところが、その大久保が慶長18(1613)年に病没します。すると、その直後、不正蓄財を理由に大久保家は改易となり、領地はすべて没収されてしまいました。7人の子供は全員切腹。縁戚関係にあった3人の大名も改易となっています。

 とはいえ、政宗も忠輝も、大久保に絡めて潰すことはできませんでした。では、家康はどうしたでしょうか。

 慶長20(1615)年の大坂夏の陣に忠輝が遅参すると、亡き家康のあとを継いだ秀忠は、これを理由に彼を改易したのです。改易は刑罰ですから、その時点で五郎八姫は離縁となり、政宗のもとに戻されます。政宗は徳川との縁戚関係を解消されたわけです。(いよいよ政宗の危機か・・・続く)

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