その政宗が、小田原攻めの参陣に遅参してきた。秀吉は「許さん。後で処分を考えるからとりあえず謹慎しておれ」と言うわけです。そのとき秀吉に代わって詰問に来た前田利家や家康に、政宗が何を言ったか。

「千利休どのが参陣していると聞きました。ぜひ、利休どのに茶の湯(茶道)を習いたい」と申し出たのです。

 そして実際に、利休から茶道を習うことができました。利休の茶道は、お茶のみならず、当時の日本の食文化のトレンドリーダーでした。「懐石料理」も利休がつくったものです。それらすべての教養を学んだのです。

 政宗は、利休から学んだことを東北に持って帰りました。これによって、東北地方の文化が一気に花開いたのです。政宗はその後も、中央の文化を学んでは持ち帰っていきます。

「梵天丸もかくありたい」

 伊達政宗は、小さいときに片目を失明したこともあり、非常に内向的な性格で、実の母からも嫌われていました。母・義姫(よしひめ)は政宗の弟の小次郎を溺愛し、小次郎に家督を継がせるために政宗に毒を盛った、というウワサさえあるほどです。

 このあたりは、顔の半分にあざがあり、吃音(きつおん)症でうまくしゃべれず、母親が弟の駿河大納言(するがだいなごん)を溺愛した、徳川幕府の3代将軍・家光(いえみつ)とよく似ています。

伊達政宗は少年の頃(梵天丸と呼ばれていた頃)、虎哉禅師に学問とともに精神面も鍛えられた(画・中村麻美)
伊達政宗は少年の頃(梵天丸と呼ばれていた頃)、虎哉禅師に学問とともに精神面も鍛えられた(画・中村麻美)

 政宗は、もしかしたら世に出ないまま葬られたかもしれない人間でした。そんな少年時代に、政宗は父・輝宗に救われます。輝宗は、政宗に自信を持たせようと、さまざまな手を打っていったのです。

 まず輝宗は、政宗が梵天丸(ぼんてんまる)と称していた幼少期に、学問の師として高名な禅僧・虎哉宗乙(こさい・そういつ)を招聘(しょうへい)します。歴代のNHK大河ドラマの中で大人気だった『独眼竜政宗』で、梵天丸が寺で不動明王を見て、「梵天丸もかくありたい」と言った場面がありましたが、あの寺の禅僧です。

 虎哉禅師は梵天丸に、「お前は何のために生まれてきたのか」「何のために伊達家を継ぐのか」と徹底して精神面を鍛えます。また、禅修行を課し、さまざまな学問を修めさせました。それにより政宗は、戦国時代きっての学問ができる大名となったのです。

 秀吉時代の大名の半分以上は、学問がなく文字に暗かったといわれますが、そういう時代に政宗は群を抜いて優秀だったのです。もし教養を積んでいなかったら、政宗はおそらく、戦国大名としてあそこまで生き残ることができなかったと思います。

 次に輝宗は、天正5(1577)年、11歳で元服する際、伊達家中興の祖と言われる、室町時代に活躍した9代当主・大膳太夫(だいぜんのだいぶ)政宗にあやかり、梵天丸に「政宗」という諱(いみな)を与えます。義姫、小次郎をはじめとする親族や家臣団に、次の当主は政宗だと明確に示したのです。

 そして政宗の側近、家臣に片倉小十郎(かたくら・こじゅうろう)を当てています。小十郎はもともと神職の次男として生まれた人物。出自が神職であるが故に、自分は武士らしくありたいとして、普通の武士以上に自らを武士らしく徹底的に鍛えあげた人間です。そういう家臣を補佐役に付けました。

 小十郎はその後、輝宗の期待通り、補佐役として政宗を支え続け、伊達家の危機を幾度となく救っていきます。秀吉の小田原征伐の際、参陣すべきかどうか悩む政宗を、参陣するよう説き伏せたのも小十郎でした。

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