第三の道を目指した龍馬

 明治維新において、龍馬は「第三の道」を考えていました。

 当時は徳川家(旧幕府)を中心とした公武合体の新政府と、その対極に薩長を中心とする討幕的な新政府を目指す2大勢力がありました。しかし、世の中には別の道もある。第三の道として、中小藩などを含めたその他大勢の声なき声を代弁するというものです。

 薩摩・長州、幕府、その他大勢を含めて、みんなで全体的に物事を考える世界があってもいい。「万機公論に決すべし」という議会制民主主義のような世界です。それこそが、坂本龍馬がそもそも狙った世界だったように思います。

 龍馬は、第三の勢力を結集するために、“力”が必要だと考えていました。そのために日本で最初の商社兼私設海軍とされる「亀山社中」(のちの「土佐海援隊」)を設立し、艦船を集めて、貿易による利益などを得て、力を蓄えようとしていたのではないでしょうか。

 龍馬は米国からペリーが来航したときに、現場で黒船を見ていました。たった4隻だけで、日本がひっくり返りそうになった。その黒船を自分が持ち、私設海軍をつくることによって、いわゆる決定権、発言権というのを握ろうと考えた。その黒船を持つためのお金を稼ぐ役割を担わせようとしたのが、亀山社中だったのでしょう。

 亀山社中にお金を出したのは、先ほど言及した薩摩の小松帯刀です。

 龍馬は勝海舟の門下生となって参画した神戸海軍操練所が1865年に解散してしまい、土佐藩からも背信を疑われるような状況でした。そのような中で、神戸海軍操練所時代から温めていたプランを支援してくれる人物が現れた。だから坂本龍馬は「小松は神様だ」とまで言っているのです。実際に龍馬がそう書いた手紙があります。

 当時の薩摩は、薩英戦争に敗れて艦船を失い、壊滅的な打撃を受けていました。そこで海軍力を再興させるまでの間は、外人部隊を雇っておくか、ということで、龍馬と亀山社中を支援しようと考えたのでしょう。

 ところが龍馬は、亀山社中を始めていったんもうかったと思うと、せっかく手に入れた自らの商売に欠かせない虎の子の船を、操船技術が未熟だったこともあり、沈没させてしまいます。

 しかも薩長同盟が整って、亀山社中が薩長との間の商売を取り持つ必要もなくなりました。実は薩長同盟が締結されて、一番損をしたのが龍馬です。薩摩と長州にとって、龍馬と亀山社中が不要になったからです。

 「これからどうしようか」と途方にくれていた龍馬。その時に支援に乗り出したのが土佐藩の後藤象二郎(しょうじろう)です。

 土佐藩は当時、将軍だった徳川慶喜(よしのぶ)に近く、薩長が勝って体制がひっくり返ると大変なことになる。そこで土佐藩は(艦船を運用する亀山社中を率いる)龍馬を支援し、土佐海援隊ができました。それでも龍馬が目指したのは、あくまで私設海軍でした。しかしほかの藩と商売を広げ、私設海軍を整える前に、龍馬は暗殺されてしまうのです。

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