薩長同盟の立役者は小松帯刀
例えば、「薩長同盟」。龍馬は、憎み合っていた敵同士の薩摩と長州が手を組んだ薩長同盟において、実際には重要な役割は担っていないのです。
いがみあっていた両藩の仲をとりもつために龍馬が奔走し、交渉が進まない中で「西郷さん、なんとかしてくれよ」と頼んで、西郷が「分かった」と応じるような場面が登場するのは小説の世界。しかしこれは、歴史学の視点からは完全に間違っています。そもそも西郷はあの当時、流刑地となっていた島から薩摩に戻ったばかりで、藩の決定権など、ありませんでした。
実際には、薩摩藩の家老・小松帯刀(たてわき)が薩長同盟の締結において決定的な役割を果たしたと考えられています。小松の部下が西郷と大久保利通でした。
薩長同盟を実現するカギだったのが、当時の薩摩藩の国父(藩主・忠義の父)、島津久光(ひさみつ)の賛同を取り付けること。小松帯刀は、どうやったら久光が納得してくれるか、落としどころを考えながら、時間をかけて薩長同盟を実現するための策を練っていたのです。
大政奉還でも、龍馬は何もしていません。
龍馬が書いたとされた「船中八策」(編集部注:平和的な大政奉還論を進言するために龍馬が起草したとされ、明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」につながったとされていた文)は、師の勝海舟や佐久間象山(しょうざん)、あるいは横井小楠(しょうなん)から教わったことを、まとめただけの話です。龍馬のオリジナリティーはどこにもありません。
従って、風来坊だった龍馬が幕末の日本を動かして歴史を変えたかのように考えるのは、あまりにも無理があります。明治維新のみならず、日本の歴史全体に龍馬はたいした影響を与えていません。『竜馬がゆく』でつくられた物語は、あくまで司馬さんの創作の世界なのです。
それでも龍馬に価値がなかったかというと、私はそうは思いません。むしろ創作の世界で人気が高まり、「間違った龍馬像が独り歩きした」ために、本来評価されるべき部分が評価されていないと感じています。
歴史学においては、何をしたかではなく、何をしようとしたのかが重要です。龍馬について、むしろ目を向けなければいけないのは、彼が持っていた可能性と目指していた未来のほうだ、と私は考えています。
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