今回は、真田信繁(幸村)の生き方から成功の本質を探ります。真田信繁は現役時代、誰からも武将として信頼されていませんでした。ところが今では、戦国の三英傑にも負けない人気があります。なぜか。信繁の最後となる戦い、大坂夏の陣で敗れはしましたが、その奮戦ぶりは多くの武将たちの目に焼きついたからです。不信と称賛のギャップには何があったのでしょうか。

 第1回でご紹介した石田三成が豊臣秀吉から信頼され、すべてを任されていたのに対し、真田信繁(俗称を幸村)はその逆で、誰からも信頼されていませんでした。それは、武将としての実績がなかったからです。能力があるのに実績がない。これが信繁の最大のネックでした。

 父・昌幸(まさゆき)が死の床についていたとき、信繁は昌幸に「これから私はどうしたらいいのでしょうか?」と尋ねます。しかし昌幸は、何も答えてくれません。その様子を見て信繁は、昌幸の枕元で涙を流したといいます。

 涙する息子に気づいた昌幸が、「なぜ泣いているのか」と問うと、信繁は、
「私が頼りないから、父上は戦術を授けてくれないのかと思うと、歯がゆくてたまらないからです」と答えたといいます。すると昌幸は「そうではない」と答えて、こう続けました。

 「才能ということでいうならば、わしよりお前の方が上だろう。しかし、世の中でものをいうのは実績だ。わしは徳川軍を上田(現・長野県上田市)で2度負かした実績がある。2回目のときはお前も城に籠(こも)っておったが、そこで何をしたという印象に残るものがない」

 「いいか、いざというとき人が動くかどうかは、指図しようとする人間に実績があるかどうかで決まる。仮にわしが大坂城へ入って軍議の席についたら、そこにおる人々は私の言うことに従う。しかし、何の実績もないお前が軍議で何を言おうと詮無(せんな)いことだ。だから、お前の問いに何も答えなかったのだ」

祖父・幸隆、父・昌幸から受け継ぐ才能

 しかし、そうは言っても、「関ヶ原」で敗れて徳川家康に高野山へ配流され、死ぬまで家康憎しだった昌幸は、最終的に徳川方が大坂城を攻めた際の策を「京都のどこどこに火を放って焼き払い、徳川に対してはここからこう攻める」と、信繁に具体的に授けました。

 後年、信繁は大坂城に入城した際に、軍議で昌幸に授けられた策を披露します。しかし、その場で却下されてしまいました。昌幸の策を却下された信繁は、「俺ほど能力のある人間の戦術をどうして使ってくれないのか」と、悔しくて憤まんやるかたない。自信だけは満々だったからです。

 信繁自身が自信を持っていた才能は、どこで培われたものかといえば、昌幸であり、真田家の伝統です。なかでも真田信繁の祖父で、後の真田家の礎を築いた幸隆(ゆきたか、幸綱<ゆきつな>とも)が凄(すご)かった。

 幸隆は信濃国小県(ちいさがた)郡(現・長野県中東部)の豪族の子として生まれますが、武田信玄の父・信虎(のぶとら)の侵攻を受けて、上野国(こうずけのくに)に放り出されます。

 ところが、信虎を追放した武田信玄から「父親が悪かった。これからはわしを助けてくれ」と詫(わ)びを入れられ、旧領を回復してもらって武田の臣下になり、のちに武田二十四将に数えられるようになったのが幸隆でした。

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